終戦直後の1945年10月、逗子で旧日本軍の砲台跡が爆発し、遊んでいた子ども約50人が死傷した。事故後、ある種の「タブー」となったせいで、今も原因や誰が何人、死傷したのか詳細が分かっていない。今月、遺族が中心になり、現場に慰霊碑が建てられた。関係者は悲劇を後世に語り継ぎたいと改めて訴えた。
砲台は現在の逗子マリーナと小坪漁港近くにあった。敗戦で米軍管理下になったが、土日など米兵のいない時に地元の大人が入っては日本軍の缶詰や物資を持ち出していたという。元逗子市議の草柳博さん(88)は「二つあった大砲が動くから、子どもたちは喜んでいた」と振り返る。
爆発は45年10月20日午後に起きた。理由は不明だが、大人が明かりを取るために使っていた火が大砲の点火剤に引火したともいわれる。未就学の児童や小学生ら約15人が亡くなり、ほかに腕を失ったり、やけどなどで30人以上が負傷した。
草柳さんも2歳上の兄を失った。「優しい兄だった。やけどして病院に運ばれたが助からなかった。私は少し先に帰ったから(助かって)ここにいる」
1、2年後、現場に地蔵が建てられ、遺族が集まって供養していたが、事故はタブーとなってしまう。「(火の不始末の)犯人捜しになるのを避けた」「占領下、米軍に遠慮した」「悲し過ぎる出来事を振り返りたくなかった」。さまざまな説があるが理由は不明なままだ。地元では「かん口令が敷かれた」(草柳さん)ような状況下、事故は地元以外の市民も知らない出来事になってしまった。
ただ、73年には児童文学者で元市教育長の野村昇司さんが「砲台に消えた子どもたち」を出版したことをきっかけに少しずつ語られるようになったという。
ところがこの頃、道路建設や埋め立てのためか地蔵はアクセスが不便な近くの山の上に移設される。現場には事故を示すものがなくなり、慰霊も難しい状況となったことを危惧した草柳さんと、生前の野村さんも所属していた「逗子の歴史を学ぶ会」などが中心になり、現場に今回の石碑を建立した。
今月20日に行われた慰霊祭には草柳さんも車椅子で出席。長年、タブーのようになっていた状況を振り返り、「隠すことではなかった。供養のためにも今までがおかしかったと思っている。兄も非常に喜んでいると思う」と話していた。