今年のニュースを神奈川新聞記者が回顧する「刻む2024」。現場で取材した記者の目に何が映り、その心に何が刻まれたのか。振り返る。
1月1日夕。富山市内のショッピングセンターにいた。4日前から帰省し、職場への土産を選んでいた。突然、下から突き上げるような揺れを感じた。建物全体が揺さぶられ、立っていられない。高さ約10メートルの吹き抜けの天井から鉄枠が何枚も落下し、ほこりが店内を白く濁らせた。
実家は外壁に大きなひびが入ったが、損壊は免れた。続く余震に避難所で深夜まで過ごした。
震度6強を記録した石川県七尾市に取材に入った。木造住宅や国有形文化財に登録されている店舗がいくつも倒壊し、通行できない道路もあった。
全壊した国指定登録有形文化財「春木屋洋品店」代表の春木憲さん(78)は声を震わせながら、気丈に振る舞った。
「大事にしていこうと思っていたが…。起きたことは仕方がない。前を向かなきゃ」
市の中心部にある商店街「一本杉通り」に立つ老舗海産物店「しら井」。外壁が崩れ落ちた鉄筋コンクリート造3階建ての作業場兼低温倉庫は11月中旬にようやく、公費解体が始まった。かつて店を経営した白井洋子さん(73)は不安を吐露した。
「復興は進まず、人口は減り続けている。震災前と同じ街並みに戻ったとしても、観光客が来るとは限らない。人がいてこその街なのに、復興の道筋すら見えない」
液状化被害が深刻な同県内灘町では、住宅も電柱も道路も沈み込み、町全体が傾斜しているようだった。
木造3階建ての自宅が傾いた会社員岡野敬祐さん(50)はため息をついた。
「斜めになった家で生活しているから、頭痛はするし、食欲もなくなる。もうここでは住めないのかな」
震災で大きな傷を負った能登半島北部を、9月には記録的豪雨が襲った。
同県輪島市町野町は地震と豪雨で周辺の道路が寸断され、二度にわたって孤立した。「地震に耐えた家が大雨で何軒も流されてしまった」。地域の避難所を運営した同町曽々木地区の自治会長、刀祢(とね)聡さん(68)は悔しさをにじませる。倒れてつぶれた住宅も、山積みになったがれきも手付かずのまま。刀祢さんは政府に憤る。「対応があまりに遅い。被災地を軽視している」
「能登はやさしや土までも」という言葉がある。能登の人々の温かさを表現している。
「そっちは大丈夫? 能登の地震のことを忘れないで」「掲載紙、宝物にします」「年末は帰ってくるの?」
その後を取材するたび、被災者から温かい言葉を頂いた。と同時に、自分には帰る実家があることに後ろめたさのようなものも感じた。
復興の歩みはあまりに遅い。11月に入り、がれきの撤去や上水道の復旧の遅れを嘆く声をより一層聞くようになった。刀祢さんによると、度重なる自然災害に心を病み、自ら命を絶った住民もいるという。
道路網の寸断、断水、液状化被害、住宅密集地域の延焼拡大…。能登半島地震は、多くのリスクを抱える首都圏に警告を発しているように思えてならない。
能登はそもそも、地域で助け合う「共助」の力が強い地域とされる。だが、住民やボランティアの力だけでは限界があるのは当然で、今こそ国を挙げた防災対策が必要ではないか。