新興勢力だったランボルギーニから「ミウラ」が誕生し、それに負けじとフェラーリが放った1台が「365GTB4」、通称「デイトナ」だった。そのオープンモデルの価値とは。
■フェラーリ不遇の時代に誕生した「デイトナ」
現在のフェラーリの経営状況を見る限り、フェラーリの歴史は常に順風満帆なものであったようにも思えるが、実は彼らにも不遇の時代があった。
それは一般的に想像される1970年代の石油危機を理由としたものではない。それよりさらに前の1960年代後半、フェラーリは自身の技術革新の遅れと労使関係の悪化により、経営面で非常に深刻な事態にあったのだ。
●1971 フェラーリ「365GTS/4デイトナ・スパイダー」
こうした状況は、半ばフェラーリの本業ともいえたレース活動においても同様であった。当時のフェラーリは、レーシングカーの設計においても、伝統を重んじるあまり積極的な技術革新を続けてきたライバルに対してのアドバンテージを失いつつあり、それは徐々にロードカーに対する評価にも波及していった。
決定的だったのは1964年に誕生した「275GTB」を追って、その2年後に登場したランボルギーニ「ミウラ」の存在だろう。
ロードカーにミッドシップという基本設計を持ち込んだミウラに対してフェラーリが対抗できたことは、搭載されるV型12気筒エンジンを4カム化する程度のことだった。しかしそれも、わずか2年の運命だった。
結果的にフェラーリは、「275GTB/4」の後継車を開発することを決定する。その後継車こそが「365GTB4」であった。
ピニンファリーナのレオナルド・フィオラバンティをチーフとするチームが描き出した365GTB4のボディデザインは、それまでの275シリーズとは異なり、はるかに鋭利なフロントノーズを持つスポーティで優秀なエアロダイナミクスを期待させるものだった。
1968年10月に開催されたパリ・サロンでワールド・プレミアされた365GTB4は、その後さまざまなモーターショーやサーキット・イベントでプロモーションのために使用され、フェラーリには数多くのオーダーが寄せられることになる。
■正真正銘の正規モノ「デイトナ・スパイダー」の判別方法
ここでひとつの疑問が生じるのは、なぜフェラーリは365GTB4でミッドシップ方式を選択しなかったかということだろう。
それはミッドシップよりも、フロントミッドシップの方が、限界域でのコントロール性が容易だとフェラーリのエンジニアが判断したためだとされている。
実際に365GTB4はモータースポーツの世界でも圧倒的な強さを発揮し、1967年のデイトナ24時間では、総合で1位から3位までを独占している。365GTB4の「デイトナ」という愛称は、この時の快挙を祝したものだ。
●1971 フェラーリ「365GTS/4デイトナ・スパイダー」
アメリア・アイランド・オークションの主催者であるRMサザビーズでは、365GTB4のオープンモデル「デイトナ・スパイダー」の生産台数を121台と解説しているが、実際にはクーペモデルのルーフをイタリアのカロッツェリアなどで切断し、スパイダー化したモデルも存在するので、いわゆる見かけの台数はそれよりもさらに多い。
ここで重要なのが、フェラーリ・クラシケの認証である。出品車にはもちろんクラシケのレッドブックが備えられており、出品車は36番目に生産された個体であることが判明している。
ラインオフした後、1972年2月にコネチカット州グリニッジにあるルイジ・キネッティのディーラーに納入。同年4月のNYモーターショーに展示されてからわずか数週間で、カリフォルニア州のカスタマーに販売された記録が残っているという。
エクステリアとインテリアは、非常に美しい状態を保っており、走行距離は1万3020マイル(約2万800km)。2008年にフロリダ州のパームビーチで開催された、キャバリーノ・クラッシックでは、プラチナ賞を見事に獲得するなどその履歴もまた素晴らしい。
参考までにこのモデルのエスティメート(予想落札価格)は、225万?275万ドル(邦貨換算約2億4600万円?3億100万円)。そのリザルトがフェラリスタの間で大きな話題となっており、引き続きVAGUEでも注目していきたい。