佃煮の発祥としても知られる、東京都中央区の佃(佃島)に都心部から直接アクセスできる佃大橋ができたのは1964年で、それまでは車ではなく渡し船が主要な交通手段でした。その理由を探ります。
■落語にも登場する「佃の渡し」とは
東京都中央区に位置する人工島なのに300年も渡し船でアクセスしていた「佃島」。
深川からの橋があったのに東京駅・銀座から長らく車で行きづらかったのはなぜなのでしょうか。
落語に「佃祭」という演目があり、噺の中で「佃の渡し」が描かれています。
簡単なあらすじをご紹介します。
佃島(現在も東京都中央区にある人工島)の祭りに出かけた男がその帰り、渡し船、通称・佃の渡しに乗ろうとすると、引き留める女に出会い、結局、船には乗れません。
実は、その女が過去、自殺しようとしていたところを男に止められ、お礼を言うために引き留められたのでした。
そして、女は夫が漁師だから私の家で待てばいいと話し、じきに夫が帰ってきますが、漁師仲間が「船が沈んで、皆、溺れ死んだ」と駆け込んできます。
その船は、男が乗ろうとしていた渡し船だった……という噺です。
噺の核心はともかく、渡し船とは江戸風情を感じる、と思う方もいるかもしれません。
しかし、佃島に初めて橋が架けられたのは20世紀に入ってからで、しかも佃の渡しは戦後もしばらく存在していた、と聞いたらどう思うでしょう。
佃島には長らく橋が架けられず、さらに都心の東京駅・銀座方面から車でアクセスできるようになったのは、1964年になってからなのです。
この記事では、東京都心のすぐそばにありながら、長らく橋が架からなかった佃島の歴史を探ります。
まず、島としての佃島の概観を見てみましょう。
現在は一体化している佃島、石川島、月島はそれぞれ独立した人工島でした。
佃島と石川島は漁師が暮らす島として江戸時代初期に造られたものです。
一方、もんじゃ焼きで知られる月島は、明治時代に都市計画で造られた後発の人工島です。
諸説ありますが、料理の佃煮は佃島が発祥とされます。
また同時期にできた石川島も聞き覚えがあるかもしれません。
企業のIHIは以前、石川島播磨重工業という社名でしたが、そのさらに前身が石川島の造船所だったことに由来します。
江戸時代、佃島に橋が架けられなかった理由は明確ではありませんが、そもそも徳川幕府は主要河川に架橋することを反乱の予防などの理由で制限していました。
佃島は漁師の住む孤島なので、反乱の心配はそれほどありませんが、当時の技術を考えると橋を架けるより渡し船を使うほうが容易だったとも考えられます。
実際、佃島の面する隅田川には江戸時代にいくつかの橋が架けられたものの、流失、落橋が相次ぎました。
しかし、幕末に開国し、そして明治時代の「富国強兵」政策が始まると、そうはいきません。
前述のように、石川島造船所ができました。
徳川幕府と水戸藩が欧米に対抗するため創設したもので、明治時代には民間企業となっています。
なお、江戸時代後期には埋め立てによって佃島と石川島が一体となっていました。
当然、石川島造船所で使う物資や働く人を運ぶには、佃島・石川島エリアと東京市街地とをつなぐ橋が必要となります。
そこで1903(明治36)年に架けられたのが、越中島とその先にある深川とのアクセスが可能な「相生橋」です。
中央区の資料に当時の写真があり、トラックのように見える影が写っていますが、実際のところ、どのくらい車の通行量があったのかは、わかりません。
もっとも、せっかくできた相生橋は、すぐに失われてしまいます。
初代相生橋が架橋されてから20年後、2代目となっていた相生橋が関東大震災により焼失してしまったのです。
木造橋であるため、燃えてしまいました。
それから3代目の相生橋が架かる1926年までの3年間、佃島は再び孤島となってしまいます。
3代目相生橋は、現在の橋(4代目)と同じく幅22mで、市電と道路が通っていました。
2代目と異なり、鋼製であったため戦災にも耐え、1972年には市電が廃止され、橋の中心は車のみが走るようになっています。
かつての石川島造船所、後の石川島播磨重工業・佃工場は1979年まで稼働していたので、相生橋は戦前から戦後の高度成長期に至るまで、多くの車と人がものづくりなどのために利用していました。
さて、繰り返しになりますが、相生橋はあくまでも深川側からのアクセスが可能な橋です。
1940年には、開閉する橋として知られる勝鬨橋が築地・勝どき間に開通しましたが、佃エリアへのアクセスは依然として渡し船が利用されていました。
なぜ長らく橋がかからなかったのでしょうか。
旧佃島に直接できる橋「佃大橋」が開通したのは、1964年です。
そう、最初の東京オリンピックの年でした。
開通当時の学術誌『土木学会誌』を開くと、佃大橋が造られた理由は「オリンピック開催時の都心部交通緩和対策の一つ」と明記されています。
また、東京都建設局の資料にも「東京オリンピック開催に備えた関連道路の一部として建設されました」と、同様の内容が書かれています。
オリンピックにより増加する車をはじめとした交通需要に対応するため佃大橋が造られたということは、逆に言えば、オリンピック前は渡し船でもある程度の対応が可能だったということでしょう。
もちろん、佃に住む人々にとっては、直接かつ簡単に都心へアクセスできる橋の完成は悲願でした。
一方、佃大橋の開通日と同日、それまで「日常の足」として使われていた渡し船は廃止され、約300年という長い歴史に幕を閉じました。
隅田川で最後まで残っていた渡し船が、佃の渡しです。
佃大橋開通からおよそ30年後の1993年、もう一つの佃島・石川島エリアにアクセスできる橋として「中央大橋」が開通しました。
こちらは斜張橋ならではの美しさが際立つことから、映像作品に登場する機会もあります。
「21世紀は2本の橋が架かり、東京駅や銀座から車で楽に佃へ行ける」と戦前の人が聞いたら、驚くかもしれません。
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余談ですが中央区観光協会はウェブサイトで、佃大橋通りが醤油文化とソース文化の境目になっていることを紹介しています。
佃大橋通りより佃島側は佃煮の醤油文化で、月島側はもんじゃ焼きがあるためソース文化だという、興味深い分け方です。
こうした道路や橋の楽しみ方もあるでしょう。