関西地方、特に大阪では「モータープール」と書かれた看板をしばしば目にします。そのほとんどは、いわゆるコインパーキング(時間貸し駐車場)なのですが、なぜ特定の地域でこのような呼び方をするのでしょうか。
■「モータープール」はいつからあった?
大阪を中心とした関西地方では、コインパーキング(時間貸し駐車場)のことを「モータープール」と表現することがめずらしくありません。
現地のユーザーにとっては馴染み深いものである一方、東京都内をはじめとするほかの地域ではほとんど見ることのない表現でもあります。
モータープールの由来はどこにあるのでしょうか。
現代的な意味でのモータープールの発祥は、1953年に大阪・梅田駅前に開業した第一生命ビルディングであるとされ、ビルの地下に大阪初となるモータープールが設置されていたことが当時の新聞によって報じられています。
一方、このモータープールはあくまで「大阪初」であり、日本初というわけではないようです。
実際、小説家の宮地嘉六が1952年に発表した『老残』には「一方はモータープールの金網の塀(へい)が続いていて、その二間幅ほどの通路を進駐軍将兵がひつきりなしに往来している所なのである」という表現が見られます。
さらに、この小説の舞台は戦後間もない東京とされています。つまり、モータープールの元祖は大阪ではなく東京にあったことがうかがえます。
おそらく、モータープールという言葉を日本に広めるきっかけとなったのは、1945年から1952年にかけて日本を占領統治していた進駐軍(米軍)と考えられます。
モータープールは、自動車を指す「モーター(motor)」と「溜める(場所)」を意味する「プール(pool)」を組み合わせた英語由来の言葉です。
ただ、英語のmotor poolは、おもに「軍事機関などにおいて軍用車両や関係車両を一時的に留め置いておく場所」という意味で用いられており、現代的な意味のモータープールとはややニュアンスが異なります。
進駐軍が「軍事機関などにおいて軍用車両や関係車両を一時的に留め置いておく場所」という意味で用いていたmotor poolという言葉が、どのようにして駐車場一般を指すようになったのか、そしてなぜそれが東京やほかの地域ではなく、大阪でいまもなお残っているのか、この2点が大きな謎となっています。
■なぜ「モータープール」が大阪にだけ残ったのか
まず、第一の謎である「なぜ軍事用語であったmotor poolが、一般的な駐車場を指すようになったのか」という点について考えてみましょう。
戦後の東京中心部の地図を見ると、連合国軍総司令部(GHQ)の置かれていた日比谷付近には多くのmotor poolがあったことがわかります。
当然のことながら、進駐軍の人々は本来の意味でmotor poolと呼んでいたと思われます。
そのようすを見た当時の日本人が「クルマを置く場所」と拡大解釈したことで、日本語のモータープールが駐車場一般を指すようになったものと考えられます。
より正確に言えば、当時は現代ほど自動車が少なかったため「軍用車の駐車場」も「自動車全体の駐車場」も、実用上は大きな違いがなかったのかもしれません。
そして、進駐軍は大阪にもいくつかの公的機関を設置し、それにともなって本来の意味でのmotor poolも用意されました。
その後、大阪でもmotor poolが駐車場一般を意味するようになり、現代的な意味でのモータープールが生まれたと推測されます。
では、もうひとつの謎である、「なぜ大阪ではいまもなおモータープールという言葉が日常的に用いられているのか」について見てみましょう。
この問いは、「なぜ東京ではモータープールという言葉が残らなかったのか」と言い換えることもできます。
この点については、進駐軍が撤退した後の東京では有力財閥を中心とした再開発が急速に進んだことで、中心部に多く存在していたmotor poolがほとんど消滅した、というのがもっとも妥当な説明です。
それにくわえて、それまで「敵国語」であった英語表現を積極的に用いるのは避けたいというメンタリティもあったと考えられます。
一方、 古くから商人の街として知られる大阪では、来たるべきモータリゼーションの時代を見据え、駐車場ビジネスを営む人々が戦後に多く現れました。
その際、英語由来の言葉であるモータープールをむしろ「モダン」ととらえ、積極的に用いる傾向があったようです。
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このように、モータープールという言葉が大阪を中心に残り続けている背景には、歴史的な側面にくわえ、大阪の人々が持つ特有のメンタリティも深く関係しているようです。