東京都目黒区に「碑文谷」という地名があります。漢字の読み方も意外と知られていないかもしれませんが、交通面では重要な役割です。いったいどのような街なのでしょうか。
■謎の高級住宅街「碑文谷」とは
東京都目黒区に「碑文谷」という地名があります。
主要道路の結節点であり、高級住宅街のひとつとして人気がありますが、日頃から縁がある人以外には、その読み方すら知られていないかもしれません。いったいどのような街なのでしょうか。
碑文谷は目黒通りが環七通りと交差するあたりに広がっています。北側には三軒茶屋、南側には大岡山といった市街地があります。
環七通りは高架橋で通過していきますが、目黒通りには「碑文谷」「碑文谷保健センター」という交差点名があり、ドライバーには名の知られた存在です。
環七通りがこの地にやって来たのは1964年、他の都内主要道路の例にもれず、東京オリンピックに合わせて急ピッチで工事が進められました。その時に目黒通りとの交差部は「柿の木坂陸橋」として、信号スルーの立体交差となっています。
街の中心には、「ダイエー」の旗艦店として知られるデパートがありました。すでにブランドが変わってイオンになっていますが現役です。都内でもまだ少ない大型商業施設で、各地から買い物客が訪れていました。
街の北側を東急東横線が貫いていて、最寄り駅は学芸大学駅か都立大学駅。学芸大学駅は1927年の開業時に「碑文谷駅」となっていましたが、学校設置にともないわずか9年で別の駅名に変更されています。
さて、「難読地名」としても名高い「碑文谷」の地名はいつからあったのでしょうか。目黒区は「15世紀前半の書物ですでに見られる」としています。
地名の由来は、現地にあった謎の石碑だといいます。石にはサンスクリット語で「大日」「勢至」「観音」などと彫られていたといいますが、仏教の知識が無い住民にとっては不気味な文様にしか見えなかったかもしれません。土中に埋められていましたが、後に発掘されて、碑文谷八幡宮に置かれています。
この説をふまえてか、碑文谷地区の子供たちが通うのは「碑小学校」と命名されています(いしぶみと読む)。
いっぽう、他にも語源として、木製容器を指す「檜物(ひもの)」や「秘文(ひもん)」、はたまたポルトガル人の「ヒモンヤス」という珍説も飛び出していますが、いずれも有力視されていません。