「据え切り」という言葉は、ドライバーにとってはそれほどめずらしい表現ではありません。ただ、よく考えてみると、その言葉には数多くの不思議な点があります。
■よく考えてみると不思議な「据え切り」という表現
ひと昔前には、クルマが停車している状態でハンドルを操作すると「クルマが壊れる。据え切りしないで」と言われることがありました。
この据え切りとはどのような意味で、なぜ据え切りと表現されるのでしょうか。
ただ、よく考えてみると、その言葉には数多くの不思議な点があります。
これは「据える」と「切る」という単語が複合したものです。
それぞれ難しい単語ではありませんが、停車中にハンドルを操作することを指す言葉として適当であるかと言われると、若干の疑問が残ります。
たとえば、その行為を直接的に示すのであれば「止め回し」や「置き回し」という表現のほうがわかりやすいようにも感じます。
しかし、実際にはそのような表現が使われることはありません。なぜ「据え切り」という表現が用いられるようになったのでしょうか。
その謎を解き明かすためには、まず「据える」の歴史について考える必要があります。
文献をさかのぼると、「据える」はもっとも古い日本語資料のひとつである『古事記』にも登場している、少なくとも1300年以上の歴史を持つ非常に古い言葉であることがわかります。
一方、似た意味を持つ「置く」も同様に『古事記』にその使用例が見られます。
ただ、それぞれの用法を見ると、「据える」には「動かないようにしっかりと固定する」というニュアンスが強く、「置く」よりもやや強い意味となっているようです。
言い換えると、「据える」には「本来は動くもの(あるいは、止めておきにくいもの)を、自らの意思によってしっかりと固定しておく」といった意味があると言えそうです。
これは、現代における「据える」の意味とほぼ同様です。
そして、クルマを停車させる行為は「本来は動くもの」を「自らの意思によってしっかりと固定しておく」ことであると言うことができます。
そのため、現在ではさまざまな言葉で表現が可能ではあるものの、歴史的に見れば、クルマを停車させることを「据える」と呼ぶのは決して不思議なことではないと言えそうです。
■ハンドルは回すものなのに「切る」というのはなぜ?
ただ、「切る」についてはやや複雑です、
そもそも、クルマのハンドル(ステアリングホイール)は基本的に円形であり、その操作は「回す」という表現のほうが適当です。
実際、「ハンドルを回す」という表現もないわけではありません。
しかし、それと同じかそれ以上に、「ハンドルを切る」という表現が用いられているのも事実です。
一方、クルマの歴史を見ると、世界で最初のクルマのひとつとされているメルセデス・ベンツ「パテント・モトール・ヴァーゲン」には、円形のステアリングは備わっておらず、小さなレバーのようなものしかありません。
「ハンドルを切る」に似た表現のひとつに、「梶を切る」という舟の操作に関するものがありますが、小さな舟の梶を操作するという行為と、黎明期のクルマのレバーを操作するという行為はよく似ています。
このことから、当初は舟の「梶を切る」という行為からの類推で「ハンドルを切る」という表現が生まれたものと考えられます。
また、「切る」には「たんかを切る」や「スタートを切る」のように、「際立つ動作をする」という強調表現としての意味もあります。
最初期のクルマにはパワーステアリングもなかったため、進行方向を変えることは非常に大変な行為であったと考えられます。
「切る」という表現がクルマの方向転換に用いられるようになったのには、そういった背景もあるのかもしれません。
※ ※ ※
つまり、「据え切り」という表現の裏には、「クルマをしっかりと固定した状態にしたうえで、ハンドルを操作するという一大事をおこなう」というニュアンスが含まれていると言えそうです。
ただ、現在では「クルマをしっかりと固定する」という行為も、「ハンドルを操作する」という行為も、それほど大きな労力を費やす必要なく実行することが可能です。
表現が成立した経緯とその実態が乖離しつつあることを考えると、「据え切り」という言葉は、将来的には別の表現に置き換わっていく可能性が高そうです。