青森と函館を結ぶ連絡航路として長く運航され1988年に廃止された青函連絡船。
今、SNS上ではそんな青函連絡船名物・飾り毛布が話題になっている。
船内で使用される毛布が折り紙のように折りたたまれ、ゴージャスな花環のような形に。かつて日本の客船で提供されていた飾り毛布。梅、桜など季節の花から、門松、筍、兜など行事に由来するものまで、作例は70例以上もあったと言われている。
この文化はなぜ生まれ、衰退したのか。明海大学ホスピタリティ・ツーリズム学部の教授であり、ゼミ生と飾り毛布の継承活動も行う上杉恵美さんに話を聞いた。
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――飾り毛布誕生のきっかけは?
上杉:船が外国への重要な交通手段だった時代、何日も海の上で過ごすお客様のために、生花を飾る代わりに船にある毛布を使って花の形を作り、船室に華やかさを添え喜んでいただこうという船員の気持ちから生まれたと思われます。
――いつ頃生まれた文化ですか?
上杉:飾り毛布の最も古い記録は、1901年発行の『郵船図会』で紹介された日本郵船「春日丸」の一等客室の客室図です。「春日丸」は当時、日本~オーストラリアを結ぶ航路で運航されていました。
その図には、「毎朝給仕は、来たりて室内を清掃し、器物を整頓し、毛布及びタオルは、之を美しき花形に結びて去る。結び方に数種ありて、すこぶる優美なるものなり」という記事が添えられており、船ならではのおもてなしの表現に感銘を受けたことが伝わってきます。
――当時の乗客の反応の記録は残っていますか?
上杉:1933年に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは、船上で見た飾り毛布に日本人独特の美意識と高い芸術性を見出し、著書『ニッポン』という随筆では「寝室の上に器用に畳まれた白地に青縞のある毛布を見ると、ますます新しい世界に来たことがはっきり感ぜられた。その一枚は花の形に、もう一枚は波の形に畳まれていたのである。これで見ると、日本のスチュワードは、現代の汽船で働いてはいても、日本の浮世絵師や意匠家の器用さをその血の中に持っているのであろう」と記しました。
――なぜ衰退したのでしょうか。
上杉:飾り毛布は太平洋戦争を境に徐々に衰退しました。戦争による日本船の壊滅的な被害、船の運航の縮小・廃止、船員の業務の近代化・効率化が理由にあげられますが、そもそも毛布が寝具として使われなくなった影響も大きいです。
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かつて青森・函館間を就航していた連絡船は約45隻。青函トンネル開通に伴い廃止されたが、今も青森側に八甲田丸、函館側に摩周丸が展示船として残されている。
八甲田丸は鉄道連絡船であった名残の車両甲板や、当時運搬していた郵便車などが展示され。飾り毛布の展示はロビーのショーケースと、有料コーナーでは動画で見ることが可能。また摩周丸でも船の構造やしくみを解説する映像が展示。売店ではオリジナルグッズや冊子の販売を行っており、どちらも当時の歴史と数々の物語があったことを想像させる。ご興味ある方はぜひ足を運んでいただきたい。
(まいどなニュース特約・ゆきほ)