ニンジンの根や花を緻密に彩色模写する一方、太陽を中心にした惑星の軌道図に彗星(すいせい)の楕円軌道を描き「四百年或(あるいは)五百年ニシテ一周」と書き添える。それら植物や天文にとどまらず、宗教や芸能、文学、産業、軍事など古今東西の知識を集大成した“百科事典”「闇眠独話(あんみんどくわ)」は全30巻の大部だ。
現亀岡市を中心にした亀山藩の藩士として江戸後期を生きた矢部朴斎(ぼくさい)(1771~1850年)が、70代前半にまとめた。ほかに、桑田郡の200を超える村々を歩いて絵図や伝承などを記した「桑下漫録(そうかまんろく)」(全12巻)など地誌3部や、歴史書や法典、旅行記といった少なくとも34部の筆写本を残した。
「生涯学習の先駆者の一人とも言うべき実践者」。郷土史家で知られた故永光尚さんは著書「矢部朴斎伝」(1999年)で、学者ではない朴斎が公の援助も借りず、たゆまない知識欲で死去直前まで筆を置かなかった生き様をそう評した。
同書や新修亀岡市史によると、1771年に藩士の子として生まれ、二十歳で養子先の矢部家を継いだ。学問所世話役や藩校の邁訓堂懸(まいくんどうかかり)を歴任し、藩所蔵の書籍や文献に触れる機会に恵まれ、学識を高めた。江戸詰でも人脈を広げ、貴重な書物を借りて写した。
在任中から筆写や著述を始めたが、その作業が集中するのは、隠居を許された64歳から79歳で亡くなる前年までの晩年だ。
その先進性に注目するのは、市文化資料館の樋口隆久・文化財専門官だ。朴斎をテーマにした同館で特別展を企画した。
著書に自己の見解は加えるものの、「不審」「知者なし」「追て可考」と付記し、考証的な姿勢がうかがえるという。実地の見聞をはじめ、引用文献の明記や絵図の多用、地誌では聞き取りした関係者の名も記し、「印判などに遊び心を見せつつも、近代的な資料の取り扱いをしている」と評価する。
他見を憚(はばか)る―。著作にはそうした断り書きが散見されるという。私的なものとして広く知られず、矢部家に代々引き継がれてきたが、妻が矢部家出身の永光さんが遺筆を引き継ぎ、その業績に光を当てた。
長男の寛さん(77)=同市西つつじケ丘=は、同館にその史料群を今年寄託した。「門外不出というのは、学問に対する謙虚さだったのではないか」と思いをはせ、自身も発掘調査や文化財行政を担ってきた経験から「地域の歴史遺産として広く活用してもらいたい」と願う。
(まいどなニュース/京都新聞)