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美しき国宝・彦根城 軍事拠点の緊迫感 「現存天守」に平和祈る

毎日新聞 2024年7月7日 9時49分

 滋賀に赴任して訪ねないわけにはいかない名所旧跡の一つが彦根城。琵琶湖東岸の彦根市に鎮座する全国的にも知られる城にはせ参じた。美しくも剛健な意匠を前にして胸に浮かんだのは平和への思いだった。【吉見裕都】

 券売所を兼ねた表門を通り、石段を上がるが、なんだか登りにくい。よく見ると踏み幅や踏み高が不規則なのだ。敵の歩調を乱すためだという。

 息が上がり始めた頃、高い石垣の上に櫓(やぐら)「天秤(てんびん)櫓」が現れた。本丸へは櫓眼下の堀切を抜けて、櫓の反対側の高台に上がりそこから架けられた渡り廊下を渡って櫓を抜けていく。観光客はなんてことはないが、自身が攻め手だと想像してみる。石垣を登ることができるとも、矢の雨をやり過ごせるとも、とても思えない。加えて渡り廊下はいざというときは落として侵入を防ぐ仕組みだった。

 本丸の前に立った。天守が江戸時代のままの形で残る「現存天守」は彦根城を含め12城のみで国宝となれば彦根城や姫路城(兵庫県姫路市)など5城に限られる。外観の美しさを楽しみにして来た。確かに壮観さには感動した。だが、城内に入ると、美しさに対する感動とは違う、それまでに感じていた印象がさらに強くなった。

 天守の階段の急なこと。もはやはしごだ。いくら注意しても転落しそうで怖い。当然、敵が上がりにくいようにするための構造だ。窓に目を向ければ格子はひし形になるようにはめ込んである。弓矢や鉄砲を広角に放つための工夫である。

 印象に残ったのは美しさよりも戦う場所としての彦根城だった。

 江戸幕府が開かれた翌年の1604年に徳川家康の命で普請が始まった。豊臣家や西国諸大名を警戒する軍事拠点だった。城内からは今も大阪方面に向けて遠くまで見渡せる。はるか先に今にものろしが上がるのではないか。眺めているとそんな当時の緊迫感を少し味わった気になった。

 だが、彦根城はきれいに残っている。1622年の完成までに大坂の陣も起きたが戦火は及ばなかった。戦いの場になればこれほど残っていたか。

 明治維新後、城は政府の廃城令(1873年)で多くが失われた。彦根城は、一旦は解体が決まったが、明治天皇の北陸訪問に付き添っていた大隈重信が立ち寄り、その進言で天守などの保存が決まったとされている。その後押しをしたのは彦根城が美しさを保っていたからではないか、と思った。

 ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルによるパレスチナ自治区ガザ地区への攻撃など世界では争いが絶えない。そこでは多くの人命、財産、そして建造物が失われている。

 彦根城の下で平和を祈った。

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