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「なぜ人間はばかなことを…」 元古典の教師、戦禍の神戸を詠む

毎日新聞 2024年7月12日 8時30分

 「春暁の神戸の街に火の雨が 銀の翼の鳥があばれて」――。兵庫県西宮市の元教師で歌人の三宅隆子さん(90)が「戦禍の神戸」と題する戦争体験を基にした20首を詠んだ。空襲などの記憶は鮮明に脳裏に刻まれているが、あまりに悲惨なため歌にしたことはなかった。ところが90歳を目前にした時、「私が死ねば、この記憶は世の中から消えてしまう」という思いが湧き上がり、79年前の体験と向き合うことになった。

 「一瞬に身を貫いて魂をつれ出さうとする閃光(せんこう)はしる」。1945年3月17日未明、米軍機の大編隊が来襲し、焼夷(しょうい)弾の無差別爆撃をした。三宅さんは当時8歳。現在の神戸市長田区の高台にある一軒家で暮らしていた。

 「窓といふ窓から火を噴く光景に学校が消ゆ あしたが消ゆる」。母や妹と裏庭の防空壕(ごう)に逃げる時、通っていた国民学校が炎に包まれるのを目撃した。一夜明け、家族や自宅は無事だったが、街は見渡す限り焼け野原になっていた。

 「灰だけの街に探せる叔父の家 墓標のさまに石の流し台」。兵庫区にいた叔父の無事を確認するため訪ねていくと、家は焼失し、台所の流し台だけが残っていた。街のあちこちに遺体と不発の焼夷弾が転がっていた。「五右衛門風呂がはじけ柘榴(ざくろ)を思はせて焼夷弾束 居丈高なり」

 戦争末期、死は日常にあった。「目の前で挺身(ていしん)隊の姉さまが機銃掃射に崩るる傀儡(くぐつ)」。やかんを持ち、近くの谷に湧き水をくみに行く途中、米軍機の機銃掃射を受けた。土煙が上がり、前を歩いていた女子挺身隊の女学生が操り人形のようにパタリと倒れて、動かなくなった。絶命していた。

 「零戦の部品造りに励む父 零戦に乗る学徒兵兄」。父は鉄工所を営んでいたが、戦時中は大勢の工員を雇い、川西航空機の下請けで、戦闘機の部品を製造していた。兄は神戸一中(現・県立神戸高)卒業後、志願して海軍に入隊。少尉で零戦のパイロットだった兄は三宅さんのあこがれだった。

 「一中の仲間は誰も帰り来ず戦後の兄は黙して語らず」。出撃寸前で終戦になり、兄は無事帰ってきた。だが一中の親しかった同級生はみな戦死して戻ってこなかった。深い心の傷を負ったのか、兄は戦後、零戦乗りだったことを誰にも話すことはなかった。85歳で亡くなった時、遺品から軍隊時代の品や写真はすべて処分されていた。

 三宅さんは戦後、中学・高校の古典教師となり、「源氏物語」の読解をライフワークとした。結婚し、3人の男子を育てた。短歌は約40年前に始め、仕事や家庭、旅行、闘病など人生折々の心情を詠んできた。2022年に初の歌集「むらさきの庭」を出版。戦争についてはあまりに重いテーマのため取り上げたことがなかったが、23年冬に心境の変化があった。

 ロシアによるウクライナ侵攻が泥沼化し、停戦の兆しが見えない中で、イスラエルとパレスチナの間で新たな戦闘が始まった。子どもや若い兵士が命を落としていることが連日メディアで伝えられた。「なんで人間はばかなことを繰り返すのか。私がいなくなる前に戦争の記憶を形にして残したい」。そんな思いが高まり、ノートの短歌帳を開き、ペンを握った。「飛行服で帰還の兄も亡き今にどこかで飛び立つ戦闘機あり」

 「戦禍の神戸」は23年度兵庫短歌賞(兵庫県歌人クラブ主催)の奨励賞を受賞した。「空襲を当事者として描き、記録文学としての価値が感じられた」と評価された。「受賞はよい死に土産になりました」と三宅さんは笑う。

 戦争とその50年後に震災を経験した神戸。「歴史から謙虚に学び、大好きなふるさとがいつまでも平和であってほしい」。連作の締めくくりはそんな思いを込めた。

 「火の雨や瓦礫(がれき)の街のすぎゆきの歴史と歩むふるさと神戸」【山本真也】

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