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第五福竜丸で被ばくした父 その「心の痛み」語り継ぎたい

毎日新聞 2024年7月18日 8時0分

 1954年、米国が太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験により、周辺海域で操業していた静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくした。広島、長崎への原爆投下に続き、水爆でも日本人が被害にあった事件から70年。当時を知る人がわずかとなる中、元乗組員の父親の体験について語り始めた女性がいる。なぜ今になって声を上げたのか、その思いを取材した。【早稲田大・井上亜美(キャンパる編集部)】

焼津の「悪い思い出」

 記者が焼津駅に到着すると、出迎えてくれたのが杉山厚子さん(73)=同市在住=だ。焼津市内の観光案内を行う「やいづ観光案内人の会」でボランティアガイドを行っている。杉山さんとともに、浜通りコースを回った。

 最初に焼津市役所7階の展望ロビーを訪れた。市内の町並みと駿河湾、焼津港が一望できる。「あのあたりに福竜丸が係留されていたんですよ」。杉山さんは一角を手で示す。「でも、移動せざるをえなかったんですね。焼津の人にとっては悪い思い出だから」

 戦後の食糧難の時期、遠洋漁業で活躍した第五福竜丸。54年3月1日に水爆実験に遭遇し、焼津港に置かれていた同船は、国(当時の文部省)に買い取られ、同年8月に東京水産大学までえい航された。残留放射能の測定調査を経て、同大学の練習船として使用されたのち、廃船に。東京の夢の島に放置された。68年以降、船体の保存運動が活発になり、現在は第五福竜丸展示館(東京都江東区)で展示されている。

戦争にかり出された漁業のまち

 焼津港のすぐ近くには浜通りがある。駿河湾に面し、海岸線と並行する南北1・5キロにわたる街道だ。道路に沿って形成された集落の総称でもあり、焼津を代表する水産加工会社も大半が浜通りにルーツを持つ。漁業・水産加工業のまち・焼津の発展を古くから支えてきた場所だ。駿河湾に沿っているため、8メートルの堤防を越える波が来ることもあったという。

 海水を逃すための小道や高潮・高波をせきとめる水路、強風を避けるための低い家並みが特徴だ。「堤防の3軒先に住んでいた時は、高潮で道路が川になったこともある」と杉山さんは懐かしむ。高潮が多いため引っ越しも検討したが、漁師にとっては住むのに便利だったという。

 浜通りの人口のピークは50年で、国勢調査によると1916世帯、1万1282人を抱えていた。人々の暮らしと漁業が密接に関わっていた。

 太平洋戦争中は、焼津市から食糧運搬船として80隻以上の船が軍に徴用された。戻ってきたのはわずか十数隻。212人の漁師が命を落とした。多くの乗り手が10代の若者だったという。

戦争を生き延びた後に被ばくした父

 杉山さんの父、見崎吉男さんも徴用された漁師の一人だった。44年、19歳の時に12隻の船で食糧を運んでいる最中に米軍機から攻撃を受けた。吉男さんの乗った船を含め11隻が沈んだが、海に飛び込み、命からがら助かったという。

 九死に一生を得た吉男さんだが、戦後に乗り組んだ第五福竜丸で再び悲劇に見舞われる。放射能を大量に含んだ灰を浴びた乗組員23人にはやけどや出血、脱毛など原爆症の症状が出たため、全員が入院した。

 半年後に無線長・久保山愛吉さん(当時40歳)が亡くなり、水爆の脅威を世に訴える事件となった。「父は戦時を生き抜いたのに、戦争が終わってから被ばくし、生涯苦しんだ。とても気の毒だと思っています」。杉山さんはそう父をしのんだ。

悲劇を語り継ごうと決意

 第五福竜丸の被ばくから70年となる今年に入り、杉山さんは元乗組員の遺族として取材を受けるようになった。きっかけは今年の2月、同市歴史民俗資料館の職員から取材を受けないかと提案されたことだった。

 「父(吉男さん)との思い出話だけでもいいなら」と引き受けた。取材を受けるうちに、思い出話だけではいけないと考えるようになり、福竜丸について勉強を始めたと話す杉山さん。観光案内人の会でも福竜丸に関する講演会を企画することになり、初めて演壇に立つことになった。「事件について調べる中で、父のことを語り継ぐ決心がついた」という。

 講演は、今年5月18日に焼津文化会館で行われた。吉男さんが目にした水爆実験や、被ばくしたものと知らずにマグロを水揚げしたことを生涯悔やんでいたことが、公の場で初めて語られた。

 吉男さんは28歳の時に被ばくし、その後幾多の病を乗り越えつつ2016年に90歳で亡くなった。吉男さんは生前に受けた取材などで、ことあるごとに謝罪の言葉を口にしていた。

 そのことを直接、吉男さんから聞いた杉山さん。「何言ってんの。お父さんは被害者じゃない」と声をかけたが、生前の吉男さんは何も返さなかった。当時は深く受け止めなかったが、第五福竜丸について勉強していく中で、初めて父親の心の痛みに思いが至ったという。

 講演では「これからも第五福竜丸のことを勉強しながら語り継いでいきたい」と今後の抱負を語り、約50人の参加者が拍手を送った。

見舞金で救われなかった元乗組員

 杉山さんが講演で強調したのが、元乗組員たちの被ばく後の苦しみだ。事件は原水爆の禁止を求める署名運動のきっかけにもなり、3200万人が署名した。その一方で「死の灰」「被ばくマグロ」などといった風評も飛び交い、焼津市では被ばくした魚が土中深く埋められたり、マグロの仲買人が倒産したり、消費地から魚が返品されたりした。魚価の大幅な下落など、深刻な漁業被害も生じた。

 日米両政府は早期解決を図った。法律上の責任問題とは関係なく、米国は日本政府に200万ドル(当時のレートで7億2000万円)の慰謝料を支払い、一部は見舞金として被ばくした元乗組員に配られた。

 ところが見舞金を受け取った元乗組員に対し、不平不満を地域住民が口にするようになった。「あんたも福竜丸に乗ればよかったのに」。そんな言葉をかけられる漁師もいたという。

 戦争時の打撃に加え、海難事故で家族を失う人も多くいた土地柄だ。「遺体さえ見つからない人もいた。命の重さは同じなのに、莫大(ばくだい)な見舞金をもらう人とそうでない人がいるのは、地域住民からしたら納得いかなかったことだろう」

地域の分断は今も

 米国は54年3~5月にビキニ環礁で6回の水爆実験を行った。静岡平和資料センターによると、被災した船の数は延べ992隻にのぼる。補償を受けた船は、事件がセンセーショナルに報じられた第五福竜丸に限られた。「元乗組員たちは、事件の解決を急いだ米国や政府の判断に翻弄(ほんろう)されたのだと思う」。

 被ばく者に対する差別や偏見も根深く、元乗組員のほとんどは、医師からの忠告に従い漁業を離れ、焼津市からも離れたという。吉男さんは責任感から残ったが、船乗りへの復帰は選ばず、焼津市で総菜店を経営していた。

 事件のことを証言し続けた吉男さん。一方で元乗組員の多くは、誹謗(ひぼう)中傷を恐れ、口を閉ざすことを選んだ。杉山さん自身も今年に入り、「なんだ、(見舞)金をもらったのか」と声をかけられ、驚いたと話す。

 親子が見つめてきたのは、見舞金が地域社会にもたらした深刻な分断だ。そのしこりは、今なお残っている。「せめて見舞金が漁業関係者に平等に行き渡れば、父や乗組員たちはこんなに苦しまなかったのかもしれない」。杉山さんの思いは切実だ。

 福竜丸の被ばくから70年がたち、元乗組員の生存者は取材時点で2人となった。杉山さんによると、生存者による講演活動は現在、ほとんど行われていない。「匿名でも一言でもいいので、今の思いを聞きたい。元乗組員の心の傷を思うと酷だが、父にすべてを聞けなかったことを、今となっては悔やんでも悔やみきれない」と杉山さんは思いを打ち明けた。

風の日も雨の日も

 講演では熱心に耳を傾ける人の多さに驚いたと話す杉山さん。初めての講演だったが「今後も続けてほしい」という参加者の声に励まされたという。これからの活動について聞くと、「年に一回でもいいから、福竜丸について話ができれば」とはにかんだ。

 高校生などの若者に対する体験の継承や、第五福竜丸に関する講座の開講にも積極的だ。「人生はずっと勉強。本や記事に多く触れ、取材や講演を通し、今も成長できている。若い世代の人にも、多くのことに関心を持ってほしい。その過程で、戦争や平和について考えてもらえたら」

 「だれにだって

風の日も雨の日もあらしの日だってあるさ

大切なのは夢をしっかり抱きしめて

いのちいっぱい生きたか

波のように何度でも立ち上がったかだ」

 吉男さんが眠る墓の脇には、波のレリーフとともに、吉男さん直筆の言葉が彫られた石碑がある。生前の吉男さんは、家では福竜丸のことを話さず、自分の思いはチラシの裏に書くような寡黙な人だったという。刻まれた言葉からは、吉男さんのたくましい生きざまと、海への愛着が感じ取れた。吉男さんの愛した焼津の海が、もう二度と悲しみで汚れることのないように。杉山さんの隣で、記者もそっと手を合わせた。

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