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「私はぜったいに戦争はいやです」 少女が作文に込めた願いは今

毎日新聞 2024年8月1日 7時0分

 荒涼とした砂漠に突如出現した強烈な炎と光――。それを見た人々は抱き合い、歓声を上げた。人類初の核爆発実験が成功した瞬間だった。

 「原爆の父」と呼ばれた天才科学者の半生を描いた映画「オッペンハイマー」。早志(はやし)百合子さん(87)=広島市安佐南区=は核実験のシーンで思わず目を伏せた。79年前に見た地獄のような光景がよみがえったのだ。

 広島で被爆した少年少女らの手記集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」(長田新編、岩波書店)に早志さんの作文が収められている。

 <ピカっとものすごく、そしてとてもするどく光ったのを、たしかに私は見ました>

 当時9歳で、爆心地から約1・6キロの自宅にいた。たんすの下からはい出て、両親らと郊外に逃れる途中、頭からつま先まで血まみれの人や、つり橋に積まれた遺体の山を目にしたことを記した。「死体を踏んで皮膚がずるっとむけた時の足の裏の感覚は今でも忘れられない」

描かれなかった惨状

 「オッペンハイマー」には原爆投下後の広島や長崎の惨状は描写されていない。「ピカドン(原爆)で戦争が終わったというアメリカ視点の映画だ。被爆者はその後も苦しみ続けているのに、世界にはそれを知らない人がたくさんいる」

 同じく作文を書いた元原爆資料館長の原田浩さん(85)=広島市安佐南区=は6月、来日した「原爆の父」の孫、チャールズ・オッペンハイマーさん(49)と自宅で対面していた。

 79年前の8月6日、原田さんは広島駅で家族と列車の到着を待っていた。その様子を書いた作文の一部が「原爆の子」の序文で紹介されている。

 <僕はたいくつになるし、家にわすれてきたおもちゃが気にかかり、帰りたくなった。父の時計をみると、八時十三分をさしていた。帰りたい気持でいらいらしながら、汽車の来るのを待っていた。あまりのたいくつさに、父のひざにもたれた瞬間>

 広島の上空で原爆がさく裂した。遺体を踏み分けて炎から逃げる様子を描いた絵をチャールズさんに見せながら、被爆体験を語った。チャールズさんは真剣な様子で聴き入り「各国が結束して核軍縮を進めるべきだ」と応えた。

 原田さんは「オッペンハイマー」を見て、館長在任中のある出来事を思い出した。1995年、米スミソニアン航空宇宙博物館で企画された原爆展が米国の退役軍人団体の反発で事実上の中止に追い込まれた。原爆使用の批判につながることは受け入れられないというのが米側の一貫した姿勢だ。

「被害に向き合い行動を」

 映画は原爆被害の甚大さを知って苦悩する主人公の姿も描いており、単純に原爆投下を正当化する内容ではない。それでも原田さんは「あれから30年たつが、米国の歴史認識は変わっていない」と受け止める。そのうえで、「チャールズさんには核兵器が実際に使われたらどんな惨状になるのか向き合ってもらい、行動に移してほしい」と期待を寄せた。

 原爆が投下された後、早志さんは米軍機が飛んでいるのを目にした。偵察のために来ていたのだとあとで知った。

 <むごたらしい様子を空から見て、アメリカ人はどう思ったでしょう。いかにわれわれの敵であったとはいえ、なみだをのまずにはいられなかったと思います>

 早志さんは作文を読み返し、きのこ雲の下で起きていた現実に目を向けてほしいとの思いを新たにした。「知らない人でも誰かにとっては大切な家族だ。自分が同じ立場だったらと想像すれば、戦争の無意味さ、残酷さが分かるはずだ」と語る。

 早志さんは高校卒業後、バスガイドになった。被爆を理由に夫の家族から結婚を反対されたこともあったが、子や孫と3世代で体操教室を開くなど前向きに生きてきた。

 表紙が変色した「原爆の子」の初版本は「つらい記憶は自分の代で終わりにしたい」と考え、棺おけに入れてもらうつもりだった。しかし、ウクライナやパレスチナで核の脅しがやまない今、子や孫に読み継いでほしいと思うようになった。

<私はぜったいに戦争はいやです>

 作文はこう結ばれている。早志さんが未来に託したメッセージだ。【武市智菜実、根本佳奈】

原爆の子 広島の少年少女のうったえ

 教育学者だった広島大名誉教授の故・長田新氏が、広島で原爆を体験した子ども1175人の手記を集めて編集した。105人分を収録し、序文には84人の手記を部分的に紹介している。1951年10月に岩波書店から出版され、累計発行部数は単行本が27刷約18万部、文庫本は上巻14刷約4万7000部、下巻13刷約4万6000部。世界の多くの国でも翻訳、出版された。この本を原作に新藤兼人監督が同名の映画を、関川秀雄監督は映画「ひろしま」を製作した。

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