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ネズミを食べ生き延びた日々 南洋群島、戦禍の記憶 遺品や証言で

毎日新聞 2024年8月3日 14時0分

 「戦場となった南洋の島々」と題した企画展が、滋賀県平和祈念館(東近江市下中野町)で開かれている。第一次大戦後に日本が統治し、太平洋戦争で県関係者も多数犠牲となった南洋群島を、写真や遺品、証言パネルなど百数十点で振り返っている。【伊藤信司】

 同館によると昭和初期からの県出身戦没者は3万2592人。そのうち南洋群島方面では4000人以上が命を落としている。日本は第一次大戦(1914~18年)中、太平洋地域でドイツ領の島々を占領。大戦後はそれらを委任統治することになった。パラオ諸島のコロール島に南洋庁を設け、サイパン、ヤップ、トラック、ポナペ、ヤルートには支庁を置いた。

平穏な日々暗転

 当時のパラオで食料品などを扱った「高橋商店」を紹介している。高橋正則さん(京都府)によると、県内の農家の次男だった父親が渡航して31年に開業。佐賀県から助産師の手伝いに来ていた母親と見合い結婚をしたという。地元にカツオ遠洋漁業の基地があり、その製氷工場から仕入れてかき氷も売っていた。繁盛街でパラオ人も何人か雇っていた。しかし平穏な日々は太平洋戦争で暗転。44年に父親は現地召集され、母親は息子たちを連れて引き揚げ船に乗った。魚雷攻撃を受けながらも横浜に入港。終戦の翌年、役場から公報が届き、父親は激戦地のペリリュー島で玉砕していたことが分かった。

 黒川増吉さん(滋賀県甲賀市)は44年1月、ニューブリテン島ナタモで戦った。弾薬不足のため、マッカーサー指揮の米軍をあえて上陸させ、援軍を頼んで総攻撃をした。しかし前線には地雷が埋められ、1個連隊が全滅。陣地も取られて山に立てこもったが、集中攻撃を浴びて足を負傷した。展示ケースには黒川さんがヤシの実で自作したたばこ入れ、戦地から送ったはがきなども並べている。

ネズミ食べ延命

 42年6月のミッドウェー海戦後、日本軍の戦況は悪化。食料などの物資輸送が難しくなり、ガダルカナル島やニューギニア島などで餓死者が出た。ニューギニアに派遣されたMさん(大津市)はその惨状を回顧している。44年5月、1キロ先から軍艦に襲われ300人の中隊が90人にまで減少。ジャングルに隠れたが食料もなく、戦友が次々と死んでいった。サツマイモの根元に群れていたネズミの子を水炊きにして食べた。ヘビをたたき殺して焼いて調理した。「人間の肉以外は何でも食べた」と語っている。

 佐藤保さん(大津市)はマーシャル諸島でまかれた宣伝ビラを思い出している。「君たちはネズミ、草木を食べて、永久に生きられると思いますか?」「餓死を戦死と偽られ、君たちは満足して死にますか?」「神風はなぜ吹かないのでしょうか」などと書かれていた。さらに拡声器で「蘇州夜曲」を流しながら船が近づき、「皆様方の戦友は、米軍の手厚い保護に恵まれております」「早くこっちに来なさい」とアピール。逃げる軍属らも多かったが、日本軍の「戦陣訓」に従って撃つことはどうしてもできなかったという。

 入場無料で12月22日まで(月、火曜休館。8月25日までと祝日は無休)。8月15日午前10時から約1時間、学芸員による展示説明会(予約不要)もある。問い合わせは0749・46・0300。

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