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94歳「いつ死んでもいいと思っていた」だんらんの食卓、聴き入る孫

毎日新聞 2024年8月15日 5時30分

 太平洋戦争中に14、15歳で海軍特別年少兵(特年兵)に志願し、戦地に送り出された少年たちがいた。群馬県板倉町出身の高瀬秋治さん(94)=埼玉県越谷市在住=もその一人。少年が経験した戦争とはどのようなものだったのか。【庄司哲也】

両親に黙って少年兵に志願

 「『ニイタカヤマノボレ』(日米開戦の攻撃を指示する暗号)に胸が躍った。『俺も海軍に入って軍神と呼ばれるような人間になろう』。そう思った。死への恐れはなかった。その気持ちは今でもはっきりと覚えている」

 高瀬さんが国民学校初等科6年だった1941年12月、太平洋戦争が開戦した。ハワイ・真珠湾攻撃で米艦船を魚雷攻撃するために特殊潜航艇(甲標的)に乗り戦死した前橋市出身の岩佐直治中佐(当時26歳、開戦時は大尉)に強い憧れを抱いた。それが海軍に志願した理由だ。農家の五男に生まれた。4人の兄は全員が軍に入っていた。

 42年から始まった特年兵制度は、海軍が中堅幹部を養成するために創設した。戦時下で海軍は志願兵の年齢を満14歳に引き下げた。「少年兵募集」のビラが役場や学校に張り出された。「俺たちも海軍に行ける」。43年夏、国民学校高等科2年生(現在の中学2年生)だった高瀬さんは両親に打ち明けずに願書を出した。兄たちが既に軍に行っていた両親の気持ちは分かっていた。同じ学校から17人が受験したが、合格者は高瀬さん1人だった。

 44年2月に神奈川県横須賀市にあった海軍機雷学校(直後に海軍対潜学校に改名)に入校し、「水中測的兵」として艦船の音で敵の艦種や位置を測定する訓練を受けた。「そりゃ、厳しかった。成績はすべてが競争。『バッター』といって棒でたたかれる制裁も待っていた」。厳しさに耐え切れず自殺する人もいた。

駆逐艦「春風」の船員に そして空襲

 戦況が悪化し、成績優秀者だった3分の1の生徒が半年の予定を1カ月繰り上げて卒業となった。高瀬さんもその中に入り配属が決まった。激戦をくぐり抜け終戦まで沈むことなく「幸運艦」と呼ばれた駆逐艦「春風」への乗艦だった。

 卒業式の夜に軍用列車に乗り込み、春風が入港していた門司港(北九州市)に向かった。だが、列車の到着が遅れ、春風が出港してしまった。春風は台湾・高雄港へと向かい44年11月、バシー海峡で米潜水艦が放った魚雷が左舷後部兵員室に命中し、多数の戦死者を出した。高瀬さんはこう振り返る。「私たち水雷科の兵員室はまさにそこ。間に合って乗艦していたら、命はなかった」

 予定よりも大幅に遅れて長崎県の佐世保港で春風に乗艦した。「さびだらけ、傷だらけ、なんてひどい船なんだ」。初めて見た春風の印象だった。佐世保港に入港してくる軍艦は、煙突がなかったり、マストがなかったりして損傷を受けていた。45年になると佐世保港は空襲を受けた。

 「帽子のつばを後ろにしてサングラスをした敵のパイロットの顔がはっきり見えた」。停泊中の春風も空襲の標的になった。米戦闘機P51とグラマンが春風をめがけて突っ込んできた。高瀬さんは艦後部の17番機銃に弾を運ぶ運弾員を任されていた。

 機銃の射手は「弾、持ってこい」と怒気を含みながら叫ぶ。一方、高瀬さんのそばにいた下士官は「高瀬、危ない」と押しとどめる。敵機が上昇するのを見計らい弾を届けようとするが、すぐに次の敵機が突っ込んでくる。「カン、カン、カン」。敵機の機銃の弾が艦に当たる度に金属音が響いた。15歳の少年が経験した戦闘だった。

食卓で語る体験

 そして45年8月15日。特年兵は、終戦までに約3分の1に当たる5000人余りが戦死したとされる。軍に入った4人の兄のうち長男と三男は家に戻ることはなかった。

 高瀬さんは、戦時中のことを積極的に話してこなかった。「激戦をくぐり抜けた上の世代がいる。14、15歳だった私なんかが語るのはおこがましい」という思いからだ。だが、年を重ねるごとに軍や実戦の体験を語ることができる人は少なくなっている。

 「海軍では、たらいは『オスタップ』。英語が多かった」「戦時下も金曜日はカレーライス」「撃沈に備え一刻も早く船から離れるためどんな泳法でもいいから200メートル泳ぐことをたたき込まれた」――。食卓で話す高瀬さんの何気ない話に孫たちが、真剣に耳を傾けてくれる。高瀬さんは昨年夏、戦後初めて佐世保を長女、孫と訪れた。風景は当時と大きく変わっていた。

 戦後79年の夏。高瀬さんは当時を振り返ってこう話した。「14、15歳の時は、いつ死んでもいいと思っていた。でも、戦争が終わり10年もたてばそんな気持ちは全然なかった。何とかして生きていこうという思いになっていた」

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