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「子どもは五体満足ですか」  母が感じた被爆の恐怖、語り続ける

毎日新聞 2024年8月17日 11時31分

 職場の階段の踊り場に、日ごろから可愛がっていた女の子が倒れていた。爆風で割れて飛んできたガラスでおなかが裂け、内臓が飛び出ている。息はなかった。「ごめんね。助けてあげられなくて」。そう言って、同僚とともに建物から逃げ出した――。

 北海道帯広市の土谷節子さん(71)は、広島で被爆した母親の佐藤弘恵さん(2015年に88歳で死去)から聞いた被爆体験を詳細まで記憶している。弘恵さんが見た「生き地獄」はどのようなものだったのか。

 青空が広がっていた1945年8月6日。18歳の弘恵さんは、爆心地から1・6キロにある広島貯金支局4階に勤めていた。午前8時15分、「ピカッ」という閃光(せんこう)が走り、爆風に襲われた。

 危険を感じ、建物から出ると、「街が灰色になっていた」。建ち並んでいた建物はほぼ跡形もない。歩く人々は、身に着けているものがほとんどなく、焼けただれた皮をぶら下げた両手を突き出して「熱い、熱い」「水、水」と言っていた。「これは現実なのか」。目を疑ったと語っていた。

 弘恵さんが見たのは、皆が水を求めて川に向かう様子だった。だが、川べりに多くの人が倒れ込み、水を飲むことはできなかった。

 弘恵さんは夜になってやっと広島市宇品町(当時)の自宅に帰り着いた。両親は「よく生きて帰ってきてくれたね」と泣きながら抱きしめてくれた。そのときになって初めて、体の数十カ所にガラスの破片が刺さっていることに気づいた。弘恵さんが手作りした白地に水玉模様のブラウスは血で染まっていた。

 治療のため、近くの救護所に行った。そこは、全身が焼けた大きな傷を負った人らが所狭しと横たわっていた。「あんた、軽いけがで済んでよかったね」と言われているような視線で、胸が痛かったという。

 原爆投下から1週間後、0歳と3歳の妹が死んだ。死の灰をかぶった井戸水を飲み、体中に紫色の斑点が出ていた。「あの爆弾は普通じゃない」。恐怖心で身が震えた。

 妹たちを亡くした母親が結婚したのは1、2年後。それを機に、夫が暮らす北海道に移住した。土谷さんを含めて3人の子どもに恵まれた。だが、出産時はいつも不安がつきまとった。「指は5本ずつありますか」「五体満足ですか」と周囲に聞いた。不安は、孫の誕生でも続いたようだ。「被爆3世にもどんな影響があるか分からない。それが最大の恐怖なんだよ」とよく語っていた。

 弘恵さんは、自身の母親が50代で亡くなったときを除き、広島の地を踏もうとしなかった。土谷さんは「広島は帰りたくても帰れなかった場所だったのかな」と考える。郷愁と思い出したくない原爆投下時の記憶……。

 土谷さんは風呂場や寝る前など、さまざまな場面で母親の体験を聞いてきた。だが、弘恵さんが長男と次男に語ることはなかった。理由は分からないが、「女性の私は母にとって分身みたいな感じだったのかも」と思う。

 土谷さんは弘恵さんの死後に訪れた広島で、「多くの被爆2世が親からの体験を語り継いでいないことを知った」と言う。きょうだいの中で母親の「生の言葉」をただ一人知る者として、語り続けるつもりだ。【片野裕之】

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