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急逝した「たけちゃん」 被爆2世の妻が思いつなぎ、平和の語り部に

毎日新聞 2024年8月22日 10時0分

 生後4カ月で広島で被爆し、原爆の被害の実相と平和への願いを訴えてきた夫の急逝を受け、被爆2世の妻が友人とともに夫や家族の体験を語り始めた。25日に兵庫県西宮市内で開かれる講演会で、長く語れずにいた自身の経験も交え、被爆者の思いと自らのメッセージを伝える。

 西宮市原爆被害者の会の会長だった武居勝敏さんは2月、78歳で亡くなった。原爆投下当時、広島市内にいた13歳上の姉は爆風で崩れた屋根の下敷きになって頭に大けがをした。姉を助けようと郊外から駆けつけた父親は入市被爆し、10日後に赤ちゃんだった武居さんを連れて疎開先から戻った母親と兄も被爆者となった。

 武居さんは会社を退職後の2016年、会長に就任。自身の経験と、高齢で語り部活動ができなくなった会員から聞き取った被爆体験を学校や講演会で伝えてきた。

 戦争や原爆に関する資料を読み込み、自宅には資料が詰まった大量の箱が並んだ。講演では日本の加害者としての側面も伝え、「戦争と平和は裏表。核兵器廃絶をしてもまた作るのが人間。一人一人が反省して努力していく必要がある。そのために被爆者の思いを伝えていきたい」と語っていたという。

 有機農業や地域活動にも盛んに取り組み、子どもから大人まで誰とでもすぐ仲良くなり、「たけちゃん」と呼ばれて親しまれた。23年7月には富士登山へ出かけるほど元気だったが、原因不明の歩行困難となり、最後になった12月の講演では車椅子から語りかけた。24年春に「ヒロシマ・ナガサキ」を未来へ語り継ぐための会を創設しようと奔走していた矢先だった。

 妻のミツ子さん(77)は長年、「日常生活の全てが原爆だった」という子ども時代を語ることができなかった。8人きょうだいの長姉は爆風に飛ばされて16歳で亡くなり、父母や他のきょうだい全員が被爆。姉の1人はひどいやけどを負い、家族による治療は壮絶を極めた。

 末っ子のミツ子さんは戦後生まれだが、幼い頃から家族それぞれが原爆で負った苦しみを聞いて育った。やけどで形相の変わった女性や、水泳の授業前に川さらいをすると出てくる骨など、街のそこかしこに残る原爆の苦しみを小さな心で受け止め続け、大人になっても「恐ろしくて話せない」と口をつぐんだ。そんなミツ子さんを武居さんは「いつか話してくれる」と見守っていたという。

 武居さんが亡くなった2カ月後、その機会が訪れた。前年に武居さんに講演依頼をした宝塚市教育委員会から「今年も平和学習をしてほしい」と連絡があった。武居さんを市教委とつないだ阿部節子さん(37)や数年前から一緒に活動していたストーリーテラーの田中千代野さん(74)の顔が浮かび、「たけちゃんが残してくれたメンバーがいる。私が伝えていかないといけない」と引き受けることを決めた。

 3人での活動名は「ピースナーレwithたけちゃん」。娘の郁子さん(53)が「平和になれ」という願いを込めて考えた言葉と、武居さんの思いを受け継ぐ意図を込めた。

 ピースナーレ初の平和学習は7月。ミツ子さんは事前に夫の残した資料に目を通したり、広島の平和記念資料館を訪れたりして準備した。当日は子どもたちが「ウクライナでの戦争をどう思うか」と質問するなど真剣に耳を傾けた。ミツ子さんは「対話や外交で戦争の火を小さくすることはできる。火を消すことができるのは人間」と自分事として考えるよう促した。そして訴えた。「そのためにどんな時も生き延びてほしい。自分を大事に生きて」

 田中さんは原爆詩を朗読。「気持ちを入れて取り組むと、子どもたちが豊かな感性で泣いたりおえつしたりして聞いてくれる。悲しみや苦しみを知らせるのはしんどいけれど大事なこと」と使命感のようなものを覚えた。「平和はあるものじゃなくてみんなで作っていくもの」。阿部さんも、そう話していた武居さんの言葉を胸に資料作成などをサポートしている。

 講演会は「戦争のリアルから違法化へ」と題し、西宮市甲東園3のアプリ甲東3階で午後2時開演。資料代500円。学生、障害者無料。問い合わせは甲東平和を考える会(0798・52・1719)。【稲田佳代】

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