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首がない赤ちゃん、ウジのわいた体 16歳で被爆した女性が見た戦争

毎日新聞 2024年8月31日 11時0分

 1945年8月6日に広島で被爆した服部道子さん=埼玉県蕨市=は、95歳の今も、核廃絶を訴える語り部活動を精力的に続けている。原動力は「あの原爆でみじめに死んでいった人たちのため、生かされている自分がやらなければ」という強い思いだ。

 25日、さいたま市であった市民グループ主催の催し「埼玉リレーカフェ」に招かれた服部さんは車いすの上から、時に身を乗り出すようにして自らの体験を語った。タイトルは「16歳の被爆少女が95歳の今 伝えたい事」。

 79年前、女学校を繰り上げ卒業して看護師見習として働き始めた服部さんは爆心地から約3・5キロの軍の医療施設で被爆した。「ピカッ、ドーンとあたり一面真っ白に。『伏せろ』の声で伏せ、そのまま気を失った」

 自身にけがはなかったが、やがて、大やけどをした人たちが次々にやってきた。その様子は見るも無残だった。「顔が膨れ、目玉が飛び出し、目も口もどこにあるか分からない。皮膚が焼けただれ、男か女かも分からない」。最初はその様子が「怖くて怖くて」逃げ回ったという。父親に会って元気を取り戻し、その後は懸命に看護に当たったが、無力感にさいなまれた。

 「『どうにかしてください』『助けてください』と言われても、薬もない、何もない。どうすることもできない」。むしろを敷いて寝かせた患者が次々に亡くなっていく。

 赤ん坊を背負った母親がやって来て「おねえちゃん、赤ちゃん助けて」。ふと背中を見ると、赤ちゃんの首がなかった。思わず「あっ首がない」と言ってしまった。母親は何とも言えない悲鳴を上げ、そのまま倒れて亡くなった。「赤ちゃんだけは助けたいと必死だったのに、言ってはいけないことを言ってしまった」と悔やむ。

 服部さんの足をつかんで「日本は戦争に勝つよね」と話しかけ、そのまま亡くなった男の子もいた。体を動かすこともできない患者にハエがたかり、ウジがわく。放置された遺体が腐っていく。「虫けらでしたよ」

 1カ月後、家族とともに広島を離れ、親戚を頼って東北各地を転々とした。47年に福島県の小学校の代用教員に採用されたが、体調不良に悩まされた。血混じりの下痢や微熱が続き、めまいがして立っていられない。授業が終わると教壇に突っ伏し動くこともできない。原爆症特有の症状だったが、「なまけ者」「被爆がうつる」と心ない言葉を浴びせられた。3年ほどでやめざるを得ず、家族で東京へ出て職を探したが、なかなか見つからなかった。「本当につらかった」

 仕事を転々としながら家族を支え、子育てにも追われる一方で、被爆者団体の活動に加わった。2014年には国際NGO「ピースボート」の船旅に参加し、海外で体験を語った。17年には「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のノーベル平和賞授賞式が行われたノルウェーのオスロに出かけた。「なぜ、日本が核兵器廃絶を堂々と訴えないのか不思議でならない」と力を込める。

 語り部活動は今も現役で、今年も地元の蕨市などで語った。「40歳で歯が抜け、手術も何度かしたけれど、今生きていられるのは、死んでいったみんなが守ってくれるから。背中を押される限り、語り続ける」と話す。集会では「自分の後」のことにも言及した。「きっかけは何でもいい。小さなことでも。そうしてみんなが一斉に立ち上がれば、核をなくすことができるはず」。そう繰り返した。【萩原佳孝】

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