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語り部デビューは70代 100歳迎え「命ある限り大津波を語り続ける」

毎日新聞 2024年9月6日 7時30分

 東日本大震災の被災体験や地域の民話を伝える語り部として活動してきた、福島県新地町の小野トメヨさんが8月に100歳を迎えた。大津波で自宅も家財も流されたが、丈夫で話し好きな身一つ残り、家族や仲間に支えられて迎えた百寿。大正生まれの語り部は「命ある限り語っていたい。それが私の生きがい」と決意を新たにしている。

地域の民話に被災体験

 「あれは元禄時代のころ……」。100歳の誕生日となった8月26日の2日後、小野さんは新地町役場でお祝いに訪れた多くの関係者や親族に囲まれていた。耳は遠いが足腰はまだまだ丈夫。赤い帽子と衣装を着て椅子に腰掛け、地域に伝わる「あんこ地蔵」の昔話を語り始めた。それまで談笑していた穏やかな口調から一転、張りのある元気な声が町役場の一室に響く。

 1924(大正13)年8月、同県の旧飯豊村(現相馬市)の農家で、8人きょうだいの7番目として生まれた。畑仕事の合間、父親が子どもたちを集め、近くの川に潜むとされるカッパの話や地域の言い伝えを聞かせてくれるのが好きだった。

 太平洋戦争では、南方に赴いた長兄が帰らぬ人に。20歳の夏に終戦を迎え、国鉄職員だった与一さん(99年に82歳で死去)と結婚し、新地町で3人の子を育て上げた。

 民話の語り部としてデビューしたのは70代。2001年に県が開いたイベント「うつくしま未来博」に自ら応募し、語り部として出演した。その後も郡山駅(郡山市)に設けられた特設スペース「おばあちゃんの民話茶屋」などで語ってきた。

 レパートリーは長短合わせて50ほど。町史の編さんに携わった町民の話や、幼少期に聞いた昔話が基になっている。原稿は見ない。「頭の言葉が出たら、あとはずーっと続く。何回も語って染みついているから」

津波で自宅流され

 11年の震災ではJR常磐線新地駅そばにあった自宅が丸ごと流されたが、同居する長男の妻と避難して一命を取り留めた。持ち出せたのは手提げ袋一つ。後から見つかったのは、泥だらけになった夫の位牌(いはい)と、語り部の衣装1着だけだった。

 避難所暮らしが長引き、一時的に東京の親戚宅に身を寄せた。寂しさを感じていると、語り部の活動で親交の深かった友人から手紙が届き、心の底から励まされた。「被災がつらくて泣いたことはなかった。でも、いろんな人の優しさに触れて涙が出た」

 語り部としての「復帰」も、被災経験を語ることからだった。11年8月、津波で甚大な被害の出た宮城県南三陸町。「みやぎ民話の会」が主催した、被災した東北の語り手が体験を伝える会に参加した。

 「『津波が来たって、常磐線の土手からこちらには来ないだろう』っていう、みいんな、安心感を持ってたのねえ」「(自宅は)何もねえ。さらって持ってったんですよお、津波が」

 自らの経験を語り、幼いころ覚えた童歌も披露した。「語り続けたい」と改めて思った日だった。

「過去が消えてなくなる前に」

 町内の仮設住宅での生活を経て、内陸の住宅に移り住んだ。今は長男夫婦と暮らし、月1回ほど近所の古民家で開かれる地元の語り部の会に参加する生活。週2日のデイサービスに通いながら、趣味の俳句も続けている。

 戦前生まれは今や、国内人口の1割にまで減った。地域や家族の昔話、戦争体験、あるいは災害の記憶……。それらを、身近な子や孫にきちんと伝えられている高齢者ばかりではない。

 小野さんには語り尽くせぬ思いがある。「民話だって津波だって戦争だって、一人一人の経験は違う。私は知ってほしいし、まだまだ語りたい。過去の話が消えてなくなる前に、皆さんも語ってほしい、聞いてほしいと私は思います」【尾崎修二】

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