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岩手・釜石の前市長が経験した「壮絶な現場」 回顧録に込めた思い

毎日新聞 2024年9月10日 15時30分

 岩手県釜石市の野田武則・前市長(71)が今夏、東日本大震災への対応や復興の道のりをつづった「釜石のいちばん長い日~元市長の震災記」を出版した。発生から退任するまでの12年8カ月余りの日々を、不慣れなパソコンと格闘しながらまとめた。300ページ超に及ぶ回顧録に込めた思いとは――。

「記録誌に書き切れなかった思いを」

 「(震災について)私も書き残した方がよいのではないか」

 野田さんは市長退任前の2023年秋、そんな思いにかられた。自身の主導で市が編集した震災記録誌が完成した頃だった。

 記録誌は、震災が発生した11年から23年までに市が蓄積した情報を基に作成。震災対応や復興施策をデータと共に収めた約330ページの力作だ。

 しかし「復興は多くの人の力で成し遂げられた」と考える野田さんは、記録誌に書き切れなかった人々の思いや活動も世に出した方が幅広く震災を伝えられると思った。それには自著の出版が最善策だった。

 野田さんは、地元出身の編集者に連絡を取り、口述筆記で進めることになった。23年11月に市長を退任し、翌12月に約10時間、震災当日の状況やその後の対応について語った。

能登半島地震発生で「もっと詳しく」

 それから程なくして元日に能登半島地震が発生した。能登の人が参考になるように、より詳しく書いた方がよいと感じた。2月に入って口述内容が書面で届いたが、言い足りない部分もあった。

 「自分の手で書かなければならない」と野田さんは悟った。市長在任中は触ったことがなかったパソコンの文書ソフトで加筆修正することにした。

 市内の家電量販店でパソコンを買い、操作方法を学びながら5月の連休ごろまで毎日1、2ページずつ書き進めた。口述が全体の4分の3で、それ以外を加筆した。章立てや文章の校正は出版社の他、市内在住のライターらの協力を得た。

 書名をどうするか。当初は別の名前が候補に挙がったが、野田さんは震災が発生した「3月11日」を別の言葉で表現することにこだわった。既刊の書物に類似のものがあったが「いちばん長い日」がしっくりきたという。

 内容は6章構成で、震災の発生から退任直前の仕事までを時系列中心にまとめた。書き出しは地方政治を志した経緯に触れた。

200人以上の名前を盛り込み

 目を引くのは個人名の多さだ。19年ラグビー・ワールドカップ(W杯)日本大会招致で交流があった森喜朗元首相らから、市職員、各地域のリーダーと幅広く「200人は下らない」と野田さん。個人名を書くことで「復興がそれぞれの人の力で進んだことが伝わり、その人に感謝の思いを届けられる」という。

 「午後7時ごろ、少し落ち着いた状況だと判断し、初めて防災行政無線を使用しました」。震災当日の夜、野田さんが初めて市民に震災について呼び掛けた時の状況を記した一文だ。衛星携帯電話はじめ他の通信機器は使えなかった。情報発信手段の途絶は避けねばならず、電源を気にしながら放送したという。

 震災に遭った「被災者」とは誰を指すのか。法律で行政は災害の被災者を支援すると定められている。しかし明確な定義がなかったため、対象者を判断する必要に迫られた。

 津波で家を流されたり、親族を失ったりした人は当然だが、自宅や家族が無事でも生活苦に陥った人には支援の手を差し伸べる必要があった。野田さんは「事前に決めておけばよかったが、その場その場で対応せざるを得なかった」と反省を記した。

 安否確認や遺体への対応にも腐心した。

 震災5日後に運行を始めた無料バスは、自家用車が流失するなど移動手段に事欠く市民のためとされたが、遺体安置所を回ってもらい身元確認を進める意味もあった。安置所は検視など法律にのっとった手続きと、供養やお清めといった死者の尊厳への配慮が並行する「壮絶な現場」だったと書いた。

 回顧録の中盤はラグビーW杯開催や大型商業施設開店など復興関連の事柄に割いたが、後半は震災直後の話に戻る。

複合施設なのに「防災センター」とした過ち

 市北部の鵜住居(うのすまい)地区にあった防災センターは、逃げ込んだ160人超が犠牲になったとみられる。低地にあり本来の避難場所ではないのに訓練に使っていたことや、複合施設にもかかわらず名称を「防災センター」としたことなどが要因とされた。野田さんは「ここが最も書きたいと思った部分だ」と取材に答えた。

 また、自衛隊や消防などによる捜索ではなく、センターを訪れた父親自ら息子の遺体を発見した事例を挙げ「結果的に捜索が不十分だったということ。本当に申し訳なく、穴があったら入りたかった」と述懐した。

 07年11月に市長に初当選した野田さんは、4期16年のうち12年8カ月余りを震災対応に費やした。取材に「生き残った者は亡くなった人の分まで生きる。そういう気持ちを震災直後は多くの人が持っていたと思うが、最近は薄れつつあると感じる」と語った。

 そして「生きていることに感謝しながら精いっぱい日々を生きていく。そのことが今、釜石のみならず必要なのではないか」とも口にした。

行政トップの苦悩、飾らずに

 防災センターの検証や震災記録誌を通じて野田さんと向き合った斎藤徳美・岩手大名誉教授は「トップの苦悩や思いが伝わる。行政として至らなかった部分も率直に述べている」と高く評価した。そのうえで「防災対策や震災伝承など残された課題への提言があれば、更に良かった」と指摘した。

 四六判、320ページ。3500部刊行。2420円(税込み)。【奥田伸一】

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