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余命2週間の19歳 「楽しいこといっぱい」 家族と果たした約束

毎日新聞 2024年9月16日 10時0分

 医師から告げられた余命は、2週間だった。「楽しいことをいっぱいしたい」。そう語っていた19歳の女性は最期まで自分らしく生きることを諦めず、やりたかったことを実現させた。その一つが、自身をモデルにした絵本の原画展。家族と共にこの夏、開催にこぎつけた。

 香川県丸亀市の武川紗音(さやね)さんは、幼少期から相次ぐ病気の治療に臨んできた。兄と妹との3人きょうだいで、母の咲子さん(47)は「責任感が強い。頑固で不器用だけど、自分をしっかり持ち、家族や友達を大切にする子」と語る。

 最初の異変は5歳の時。咲子さんによると、2010年1月、紗音さんは肩や手首の痛みを訴え、次第に手が腫れてきた。近所の病院では原因がわからず、同県善通寺市の病院で国指定の難病「若年性特発性関節炎」と診断される。専門医がいる鹿児島の病院へ月2回、泊まりがけで通院し、小学5年からは大阪の病院へ通院を続けた。中学に入学した頃には病状も安定。コーラス部に所属し、友達もできて楽しい学校生活を送っていた。

 しかし、それは長く続かなかった。中学2年の1月に白血病が判明。医師から病名を告げられた咲子さんは「頭が真っ白になった」。帰宅し、家族5人がそろった場で報告した。その日の夜はリビングに布団をしいて、5人で一緒に寝た。

 中学卒業までの約1年の入院治療で白血病は症状が落ち着く「寛解状態」となり、紗音さんは通信制高校に進学した。ボランティア部に入部し、丸亀駅前の花壇の管理を任されることが学校に行くモチベーションになっていた。

 ところが、高校3年だった22年6月、白血病が再発して入院。咲子さんによると、紗音さんは我慢強く、治療のつらさをこぼすことはほとんどなかったという。長い入院生活を送る中、家で過ごしたいという思いを募らせていた紗音さんは23年2月の骨髄移植後、「今後何があっても、積極的な治療はしない。やっぱり家が一番いい」と宣言していた。その後、医師から治療の手立てがないため「治療の継続は困難」と告げられ、家族は本人の意思を尊重し、同年10月に退院させた。

動き出した家族

 余命が2週間だと宣告されたのは24年3月28日。退院時に「これからは楽しいことをいっぱいしたい」と話していた紗音さんの夢をかなえようと、宣告後、家族は動き出した。主治医を伴っての丸亀城での花見、自宅に友人を招いてのバーベキューパーティー。紗音さんは言葉を発することは難しくなっていたが、車椅子に乗って静かにその光景を見つめていたという。「2週間」となる4月11日を越えた同月18日には、日帰りで初めて東京ディズニーランドに行った。6月1日には家族だけで25年1月の20歳の成人式を前もってお祝いした。振り袖をイメージしたケーキを前に、記念写真を撮った。

約束の絵本原画展

 紗音さんと咲子さんが約束していたことの一つが、紗音さんをモデルにした絵本の原画展を開催することだった。

 咲子さんは娘を看護する日々の悩みや希望をノートに書き留めていた。それをもとに、23年秋に絵本「わたしはひとりじゃない」(みらいパブリッシング)を出版した。長期入院を「冒険」にたとえ、白血病とさまざまな合併症に向き合う少女と、支える家族や仲間たちとのふれあいを描いた物語だ。咲子さんは「命の尊さを発信しようと書き上げた」と振り返る。挿絵は、紗音さんのいとこで、高校で美術部に所属する緒方花夏さん(18)が担当した。紗音さんの姿に「自分も負けられない」と力をもらい、一緒に遊んだ時の紗音さんの笑顔を思い出しながら描いたという。原画展は宣告された余命を大幅に越えた7月1日に丸亀市でスタートした。

 入退院を繰り返していた中高時代から「支えてくれた人に感謝を伝えたい」と語っていた紗音さん。原画展の開催が実現した時はもう動くことができず、ほぼ一日中眠っている状態だった。原画展に出かけることはかなわなかったが、咲子さんは会場の様子を撮影した写真や動画を紗音さんに見せて、報告した。

握った手、離した瞬間

 原画展開催中の7月27日早朝、咲子さんは、隣で寝ていた紗音さんの呼吸が弱くなっていくことに気づいた。親類に連絡をしようと握っていた手を離した瞬間、紗音さんは「ふー」と一息つき、そのまま静かに旅立った。咲子さんには「19年の人生を生ききった」表情に見えたという。

 「皆に支えられて、紗音はたくさんの夢をかなえることができた」とほほえむ咲子さん。「どんな状態になっても、自分らしく生きる人生を諦めない」。そんな強い意志を、娘の姿から学んだ。【川原聖史】

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