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「忘れ去られてはならない」 特攻の日々、墓に刻んだ17歳の心

毎日新聞 2024年10月4日 8時15分

 80年前の1944(昭和19)年10月、旧日本軍が初めて組織的な特攻(特別攻撃)を行った。特攻隊員として敵艦に体当たりする訓練中に終戦を迎えた17歳の日々が「忘れ去られてはならない」と、あえて墓の裏側に「特攻兵器『桜花』特別攻撃隊搭乗員」と自身の歴史を刻み込んだ男性が松山市にいる。

 高島清さん(97)。現在のソウル(韓国)に生まれ育ち、44年、旧日本海軍飛行予科練習生(予科練)として松山海軍航空隊に入隊した。同年夏にはサイパン、テニアン、グアム島などの守備隊が次々と陥落。米軍は10月20日にフィリピン・レイテ島に上陸した。日本側は圧倒的に不利で、自軍の艦隊がレイテ湾に突入する作戦を支援するため、同25日に海軍の神風特攻隊「敷島隊」が米艦隊に初の体当たり攻撃を行った。

 敷島隊を指揮した関行男大尉(当時23歳、没後中佐に)は現在の愛媛県西条市出身。旧海軍省は同28日午後、関大尉ら5隊員による護衛空母などへの「必死必中の体当たり攻撃」の戦果を大々的に発表した。ただ、17歳の上等飛行兵だった高島さんは「航空隊員としての日々の生活は、ミスをしないよう励むのが精いっぱい。あまり記憶には残っていない」という。

 戦局はさらに悪化する。松山航空隊は45年3月と5月、米軍機の空襲で大損害を受け、兵舎用に近くの国民学校を借りるほど。5月半ばには、特攻兵器「桜花」の隊員選抜があり、240人の中から高島さんら約15人が選ばれた。

 「『名前を呼ぶものは一歩前へ』と言われ、『ハイっ』と。当時は憧れだね。とにかく(特攻要員に)選ばれたいという気持ちが強かった。死を考えたことはなかった」。実はその数日前、分隊長室に1人呼ばれた高島さんは、「特攻があればぜひ行かせてください」と意思を伝えていた。だが、なぜ選ばれたかは分からないという。

 「桜花」は別名「人間爆弾」。機首に1・2トンの爆弾を搭載し、母機の一式陸上攻撃機から投下されて敵艦を目指す。高島さんは三重海軍航空隊の分隊員として45年5月下旬から長野県の野辺山高原(南牧村)で特攻の訓練に入った。現地に桜花はなく、15人が1組になって高原でグライダーを滑空させることに終始した。台車でグライダーを丘の上まで運び、1人が搭乗して14人がゴムロープで引いたり支えたりするのを交代で繰り返した。「本当につらく、厳しかった」

 迎えた8月15日。戦争終結を国民に伝える昭和天皇のラジオ放送は雑音で聞き取れなかったが、「日本は負けたんだ」という上官の言葉に悔し涙が止まらなかった。思わず叫びながら、日本刀を振り回して宿舎のテントを切り裂く同僚もいた。生きて故郷に戻るつもりはなく訓練に励んでいた日々が突然終わり、誰もが放心状態だった。だが、翌日には「俺たち、帰れるんやないか」「ライスカレー食べたいな」などと口々につぶやく仲間を見て「人間って不思議な生き物だと考えさせられた」と振り返る。

 復員し、松山市に居を構えた高島さん。2005年に自宅近くに墓を建てた。江戸時代の禅僧、良寛の辞世の句「散る桜 残る桜も 散る桜」とともに、「『桜花』特別攻撃隊搭乗員 海軍二等飛行兵曹 高島清(十七歳)」と刻んだ。良寛の句は特攻隊員時代、つらい訓練を乗り越えるために仲間と合言葉にしていた。「孫やひ孫の代まで、100年、200年たっても誰かが特攻の事実を知りたいと思うように」との願いを込めた。

 高島さんの証言を収録したDVDなどは愛媛県歴史文化博物館の平和学習支援資料「戦後75年 伝えたい10代の記憶」(2020年制作)として平和学習に役立てられている。【松倉展人】

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