長崎県立長崎東高(長崎市)の生徒5人が10~13日、沖縄県を訪れ、住民ら約20万人が犠牲になった沖縄戦の歴史などを学ぶフィールドワークをした。米兵に追い詰められた多くの住民らが集団自決した沖縄本島最南端の海岸では、遺骨収集のボランティア活動を体験した。1年の横峰葉子さん(15)は「終戦から79年たった今でも遺骨が見つかることが信じられなかった。『この場で亡くなったのか』と実感した」と話す。【百田梨花】
沖縄本島最南端の糸満市の荒崎海岸。12日、横峰さんらが狭い岩場の隙間(すきま)で地面を掘っていると、遺骨収集のボランティア団体「ガマフヤー」(那覇市)の具志堅隆松さん(70)が黄色がかった石のような小さな塊を二つ見つけた。横峰さんが奥に手を伸ばしてつかむと、人の足の指と骨盤の一部と思われる骨だった。
太平洋戦争末期の1945年3月、沖縄に米軍が上陸。「鉄の暴風」と呼ばれた激しい攻撃で沖縄本島では逃げ場を失った住民らが南へ南へと追い詰められていった。荒崎海岸一帯では6月、多くの住民らが集団で自決し、その中には看護に動員された「ひめゆり学徒隊」の10代の女学生もいた。
同年代の女学生らが犠牲になった場所で、横峰さんはてのひらに載せた骨の重みを感じながら「敵に見つからないよう狭い岩場の奥にずっと隠れ、怖かっただろうな」と想像した。
近くの別の岩場の隙間では、共に活動した現地の高校生が日本兵の認識票を見つけた。縦5・5センチ、横約3・5センチのさびて赤茶けた金属板に部隊の通称番号や個人番号を示す「一二四二七 に 八」と刻まれていた。国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵の資料によると、この部隊は「機関砲第104大隊」で、現在の糸満市の摩文仁付近などで「玉砕した」との記録が残っている。
生徒らは、追い詰められた住民が逃げ込んだ近くのガマ(自然洞窟)の奥で、懐中電灯を消して真っ暗にする体験もした。長崎東高2年の小山翠(すい)さん(17)は「長崎の原爆のことは学んできたが、真っ暗な中でいつ襲われるか知れない地上戦の恐怖は、沖縄に行かないと分からない。貴重な体験だった」と振り返る。
現地で遺骨収集を続ける具志堅さんは「終戦から79年たった今も、遺骨をきちんと弔うなどできることはきっとある」と語る。