7日亡くなった文楽人形遣いの吉田簑助さんは、物心ついたころから楽屋や劇場に出入りし、6歳で入門して以来、80年以上文楽一筋に生きてきた。華やかで色香が漂い、時には哀切さや憂いも感じさせる遣いぶりは、多くの観客を魅了し続けた。
人形遣いは足遣い、左遣い各10年を経て、やっと首(かしら)を持つ主遣いになることができる。三代目吉田文五郎、二代目桐竹紋十郎という大正から昭和を代表する名人の教えを受け、舞台で足を遣いながら、昔ながらの厳しい修業を乗り越えた。
文楽は戦後、会社側(松竹)の因(ちなみ)会と組合側の三和(みつわ)会に分裂した時期がある。簑助さんは三和会に所属し、移動手段まで自分たちで手配しながら、興行的にも振るわない苦難の時代を生き抜いた。
1961年に簑助を襲名すると、三代目文五郎の幼名でもあり、二代目紋十郎の前名でもある恩師2人に共通する名を生涯大事にした。「曽根崎心中」など、初代吉田玉男(2006年死去)との舞台は多くの観客を引きつけた。
98年に脳出血で倒れたが、厳しいリハビリで克服し、8カ月後に復帰。言葉はやや不自由になったものの、変わらぬ芸で観客を魅了し続けた。桐竹勘十郎さんら多くの弟子を育て、自身や両師匠の芸風だけでなく、先人たちの芸を後世に残していくことに力を注いだ。
入門50年を機に出版した著書「頭巾かぶって五十年」(91年)の中では「来世も人形遣いになります」「そのためにも、死ぬまで修行を続けます」とつづっていた。【関雄輔】