10月にあった衆院選の取材応援で岩手県に入り、盛岡市出身で戦前に首相を務めた海軍大将、米内光政(1880~1948年)について訪ね歩いた。衆院選岩手1区にひ孫の紘正氏(37)=自民党=が立候補したのがきっかけだったが、「海軍和平派」と呼ばれ、平和をめざした異色の軍人を現代に伝えようと顕彰を続ける郷土の人々の姿に触れることができた。
北上川に面した盛岡市の円光寺。米内の墓には名前だけが刻まれ、静かにたたずんでいた。「故人の人柄を考え、質素なものにしたそうです」。前住職の妻、加藤シマ子さん(73)が説明してくれた。
寺には米内の位牌(いはい)、「為而不争」と書かれた横軸の書、有志が寄進した仏像などがある。墓所は観光ガイドなどにも記されており、歴史愛好家などが訪れる。加藤さんは海上自衛官らしい制服姿の一団を見かけたこともあるという。
米内は旧盛岡藩士の長男として、岩手県の三ツ割村(現盛岡市)に生まれた。盛岡尋常中(現盛岡一高)をへて、海軍兵学校に入校。日露戦争に従軍し、ロシアなどに駐在。海外で見聞を広げた。
連合艦隊司令長官、海軍相などを歴任し、1940年には首相に上り詰める。岩手県出身者としては原敬、斎藤実に次いで3人目だった。
経歴で特筆されるのは、日独伊三国同盟に反対したこと。和平派の提督、井上成美、山本五十六と共に「海軍三羽がらす」と呼ばれた。しかし陸軍などによる倒閣運動を招き、米内内閣は半年間で退陣に追い込まれた。
その後は対米英開戦にも反対。44年に再度の海軍相に返り咲くと終戦に向け、尽力することとなる。
盛岡市内では墓所のほか、銅像(盛岡八幡宮内)、居住地跡の碑などが残る。「盛岡市先人記念館」には新渡戸稲造、金田一京助と並び、特別展示室が設けられている。軍服、私信のほか、昭和天皇から贈られたすずり箱などを見ることができる。
「米内精神の継承発展」を目指す市民団体も活動。今年4月20日の命日にはメンバーが円光寺に墓参し、食事には海軍伝統のカレーライスもふるまわれたという。
作家、阿川弘之が執筆した評伝のあとがきには「本土が戦場にならず、国が分割されず、安穏に暮らしていられるのに(米内を)きれいに忘れ去っていいのか」(一部略)と記されている。
研究者らの間には戦前の海軍相時代に日中間の戦火拡大に寄与したことなどへの批判があるが、ポツダム宣言の受諾によるアジア太平洋戦争の終結に果たした役割は大きいという。
ひ孫の紘正氏が政治家を志したのは、曽祖父である米内の影響という。10月の衆院選では落選したが、選挙期間中の取材に対し「戦争に反対し、周りに流されずに最後まで信念を貫き通した」と振り返りつつ、「日本が無くなるかもしれないという瀬戸際のところで、大きな決断をした。自分もそういう危機的な状況の時、しっかりと自分の信念を持った判断ができるようになりたい」と話した。【高橋昌紀】