戦前の学校で天皇の「御真影」や教育勅語などを安置していた「奉安殿」とみられる建物が、栃木市千塚町の民家敷地に現存していることが分かった。戦後まもなく、吹上第二国民学校(現市立千塚小)にあった奉安殿を当時の保護者会長が自宅に移築したという。戦時下の教育史に詳しい元都賀町教育長、小倉久吾さん(87)は「連合国軍総司令部(GHQ)の指示で国は撤去を求めたはずだが、尊崇の対象だった施設を壊すのが忍びなかったのでは」と推測している。
建物が見つかったのは、千塚小に近い同市千塚町、農業、高久八郎さん(88)方。石造りで、高さ3メートル、幅1・8メートル、奥行1・4メートル。銅板ぶきの切妻屋根で、両端に鬼瓦が飾られている。平入りで正面に間口91センチの両開きの金属製の扉がある。
厚さ20センチの石組みの壁をしっくいで固めた内部には、神棚が設けられ、御簾も残っていた。建物は幅3メートル、奥行2・5メートル、高さ0・5メートルの基壇の上に建てられ、四方を計12基の石柱が囲む。柱の間の鉄鎖は、正面の1本以外失われていた。
敗戦時8歳で、国民学校3年生だった高久さんによると、建物は元々、学校にあった奉安殿で、祖父国三郎さん(1947年死去)が移築した。「いきさつは聞いていないが、移築後に学校の奉安殿だったことを祖父から知らされた。お披露目には先生を含め大勢の学校関係者が参列していた」と証言する。
千塚小が99年にまとめた創立125周年記念誌には、奉安殿は29年7月の設置、46年8月の撤去とあり、建物を解体後、「撤去」した石材や屋根などを高久家に運び、元通りに再建したらしい。併せて建立した鳥居には「昭和二十二年初午」と刻まれており、完成式典は47年2月が有力。半ば学校公認の移築だったとみられる。
高久さんによれば、高久家は代々、旧犬塚村、旧千塚村の名主で、国三郎さんは28年から敗戦までの18年間、前身の千塚尋常小時代を含めて同学校の保護者会(教育後援会)会長を務めていた。高久さんは「祖父は学校の事情に詳しく、それなりの影響力もあった。奉安殿の移築も学校や保護者会で話し合った結果ではなく、独断で決めたと思う」と話す。建物は敷地の東北端、鬼門に配し、氏神をまつっている。
奉安殿は戦前、「御真影」、教育勅語を奉護する施設として各学校に設置されたが、占領期にGHQの指令で、ほとんどが解体、撤去された。名古屋市熱田区の元教員で戦争遺跡研究会員、清水啓介さん(77)の調査によると、県内で現存が確認されている屋外の奉安殿は宇都宮市の旧姿川、旧姿川第二国民学校からいずれも民家に移築されたものなど4件。清水さんは「全国的には文化財として指定、登録例もある。戦前の教育を象徴する負の遺産として残すべき価値がある」と話す。
戦争末期の学童疎開などについて調べている小倉さんは「奉安殿の撤去は、戦前教育の全否定の一環。急に切り替えられない国民がいたことは想像に難くない。移築とはいえ奉安殿が当時の姿のまま残されており、教育遺産としても昭和初期の建造物としても貴重」と指摘している。【太田穣】
奉安殿
明治時代、各学校に交付された天皇の「御真影」や教育勅語謄本の奉置を命じた文部省訓令(1891年)などを背景に奉安施設の設置が進んだ。明治三陸地震などを受けて、校舎から独立させ、防火・耐震性を強化した「奉安殿」が1910年ごろから普及した。「紀元節」「天長節」などの祝賀行事の際ばかりではなく、登下校など日常で子供たちが奉安殿近くを通る時にも最敬礼が求められるなど皇国史観を反映した戦前教育の象徴だった。敗戦後の45年12月、GHQが国家神道の廃止や政教分離の徹底を示した「神道指令」で奉安殿について触れ、「神道的象徴を除去すること」と指示。翌46年6月、文部省が神道様式以外も含めた全奉安殿の撤去を命ずる次官通牒を発令した。