太平洋戦争末期に中国から強制連行され、過酷な労働に従事させられた人たちを追悼する集いが10月、広島県安芸太田町の安野発電所で開かれた。当時、360人の中国人がトンネル工事などに従事させられ、広島市内で被爆死した人もいた。元労働者の遺族も参列し、苦難をしのんだ。
太田川水系にある安野発電所は戦時中、軍都広島の電力を賄うために建設され、現在も稼働する。1944年夏、中国人360人が強制連行され、工事を担った西松組(現在の西松建設)の下で、長さ約8キロの導水トンネル掘りなどに従事させられた。そのうち17人は広島市内で被爆し、5人が被爆死した。戦後、帰国するまでに被爆死を含めて計29人が亡くなった。
元労働者が西松建設側に賠償を求めた訴訟は最高裁で敗訴したが、2009年に和解が成立。10年には、強制連行された360人の名前を刻んだ「中国人受難之碑」が安野発電所に設立され、追悼集会が開かれてきた。
今年は、市民グループ「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」の招きで、元労働者の于瑞雪(う・ずいせつ)さん(1925~95年)の遺族が来日した。1945年8月6日、于さんは爆心地から約2キロにある広島刑務所に入れられていて被爆した。
「継承する会」によると、生前の于さんは「冬になると、セメント袋で足を包んで草で縛って働きました。雪が膝の下まで積もり、足が凍傷になってサツマイモのようになりました。どうして生きてこれたのか、不思議です」と証言していた。
さらに、被爆時の状況について「後頭部を衝撃波で打たれ、飛んできたガラス片が右耳などに刺さった」と話したという。于さんは帰国後、胃潰瘍や心臓病などさまざまな病気を患った。晩年は寝たきりの生活を続け、被爆者健康手帳を取得できないまま亡くなった。
于さんの三女、于蘭芬(らんふん)さん(66)、四女、栄春(えいしゅん)さん(62)が追悼集会に参加した。栄春さんは「体験を涙ながらに話してくれた父の顔が思い浮かび、心身ともに深い被害を受けたのだと実感した。世界から戦争をなくし、歴史が繰り返されないでほしい」と語った。
栄春さんらは今回の来日中、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)に遺影を登録した。「継承する会」の事務局長、川原洋子さん(74)は「中国は原爆に関する医療や情報が乏しく、自分の病気が原爆に関連しているのか分からないまま亡くなる人が多い。強制連行されて被爆したことを歴史に残すことが重要だ」と指摘する。
通訳で栄春さんらに同行した大阪大学院生の屈帥帥(くつ・すいすい)さん(29)は「被爆した于さんの苦しみは娘さんたちにも引き継がれていたと感じた。強制連行と原爆による多重の被害をありのままに伝えるのが大事だと思った」と話した。【武市智菜実】