「受賞を知った瞬間は、あまりうれしくなかった」。2024年のノーベル平和賞に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が決まったことについて、日本被団協四国ブロック代表理事の松浦秀人さん(79)は複雑な気持ちを吐露した。その真意とは。12月10日にノルウェーの首都オスロで開かれる授賞式への出席を前に、話を聞いた。
10月11日夜に平和賞受賞者が発表された時、松浦さんは航空機内にいた。東京都内で開かれた被団協の全国都道府県代表者会議などに出席し、松山市へ帰る途中だった。松山空港に到着してスマートフォンの通信機能を回復させると、お祝いのメールや不在着信を知らせる通知が数十件届いていた。
現在も続くロシアによるウクライナ侵攻、中東パレスチナ自治区ガザ地区での戦闘など、世界で核兵器使用の可能性が高まっている状況下、政治的な意図も見え隠れする中での受賞。「手放しでは喜べなかった」と記者の取材に打ち明けた。一方で、ノーベル賞委員会が核兵器使用は道義的に容認できないという「核のタブー」確立への貢献を授賞理由に挙げたことについて、「亡くなった先人の活動を功績としてたたえてくれたことは感謝すべきだ」と語る。
1945年11月、愛媛県西条市に生まれた。母ユキコさん(当時31歳)は松浦さんを妊娠中の同年8月6日、爆心地から約3キロの南観音町(現在の広島市西区)で被爆した。松浦さんは長年、自身を「被爆2世」だと思っていたため、「胎内被爆者」として被爆者健康手帳を取得したのは30歳を過ぎてからだった。
78年から「愛媛県原爆被害者の会」松山支部で事務局長を務めるなど、原爆被害の悲惨さを伝える先人たちの活動を支えてきた。ただ、松浦さんの目にはこう映った。「本当は嫌だったはずだ。悲しくてつらいんだから」。そういう感情を押し殺して、「『時空を超えて人間を苦しめる』核兵器の恐ろしさを伝え続けてきたのが被爆者だ」と振り返る。「核兵器使用への倫理的、道徳的な壁を高くしてきた」と表現し、その貢献に敬意を示した。
自身は被爆による遺伝的な影響も表れず、差別も受けていない。「比較的幸せに、健康に過ごしてきた自分が被爆者の苦しみを訴える立場にあるのか」。葛藤を抱えながら、被爆者団体での活動を続けてきた。だが、被爆者の平均年齢は85歳を超えた。先人たちが次々と鬼籍に入る中、「話せる自分が伝える責務がある」との思いに至ったのは、ほんの5、6年前のことだ。全国の被団協メンバーの中では若いとはいえ、来年は80歳。老いは忍び寄るが「少なくとも90歳までは伝え続ける健康な体と頭脳を保っていたい」と語る。
後世に記憶や教訓を引き継ぐため、自身や母親を含む被爆者たちの証言ビデオや体験記を残している。「(被爆者証言などの)活用方法は次の世代が考えること。自発的に次の世代の人たちが自身の課題としてどう捉え、どう生かすかを考えてもらいたい」と期待する。
2025年は被爆80年となる。3月には核禁止条約第3回締約国会議が開かれるが、日本は批准していない。「オブザーバーとしてでもよいので参加してもらいたい」と話すが、「本当は条約を批准して(核保有国などの参加に向けて)口説いて回るのが本来の日本の役割ではないか」と訴える。
今回の受賞で「被爆者や被団協の存在感は高まった。条約に日本が加入するよう、その声や運動を大きく広げたい」と力を込める。惨劇を二度と繰り返さず、報復の連鎖を断ち切る「ノーモア・ヒバクシャ」の精神を広める活動はこれからも続く。【山中宏之】