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「心も遠のくのが怖い」 集落再生への望みを砕いた全戸の半数被災

毎日新聞 2024年12月20日 8時0分

 「戻る夢は諦めてないけれど、もう無理なんやないかという気持ちにもなる……」。元日の地震で土砂崩れが起き、一家9人が亡くなった石川県珠洲(すず)市仁江町は、9月の豪雨で再び土砂崩れに見舞われ、集落の半数に当たる12戸がのみ込まれた。地域の再生に取り組んできた住民らは、絶望感にさいなまれながら年の瀬を迎えた。

 「この光景を見ると心が折れそうや。もう無理なんやないか」。自宅1階が土砂に埋まった南仁さん(65)は2階の屋根に上り、目の前に転がる巨大な岩を見上げて力なくつぶやいた。地震直後の1月初旬、記者が初めて取材した時、「行方不明の人が見つかるまで、ひげはそらない」と気丈だった面影はない。

能登地震で9人犠牲

 元日の夜から翌朝にかけ、住民は総出で土砂に埋まった中谷(なかや)六男さん(当時88歳)一家の救出にあたった。がれきの中から孫の匠さん(42)とその長男(1)は救助されたが、中谷さんや妻よしいさん(当時89歳)ら9人が犠牲となった。匠さんの妻らが遺体で見つかるたび、誰もが声を殺して泣いた。最後まで行方が分からなかった匠さんの両親が遺体で見つかり、南さんがひげをそったのは3月4日だった。

 地震前、23世帯約50人が暮らしていた集落は土砂災害の危険性のため、全域への避難指示がいまだに続いている。大半の住民は市外に避難したが、数人は地元に残った。避難した住民も協力し、集会所に湧き水を引いた。数日おきに住民が泊まり込み、寝食を共にしながら励まし合ったという。南さんも夏には半月ほどを集会所で過ごした。「結束は地震を経て、はるかに強くなった」と振り返る。

 だが、9月の大雨が前に進もうとしていた住民らの思いを根こそぎ奪った。11月をめどに砂防ダムを建設する予定だった場所が一気に土砂崩れを起こしたのだ。湧き水の水源も土砂で埋まったのか、ほとんど出なくなった。中谷久雄区長(69)は「なぜこんな目に遭うんや。まるで、ここに住むなと言われてるようなもんや」とやり場のない怒りを口にした。

 8月の段階で、全体の3分の2にあたる17世帯43人が仁江町に復興住宅ができれば戻る意向を示していたが、状況は全く変わってしまった。「体が弱ってきて、仁江に戻れそうにない」と入居を諦める連絡が相次いだ。復興への機運はしぼみ、避難先に出たままぷっつりと連絡が途絶えた人もいる。

 市は仁江町での復興住宅建設を模索しているが、具体的には白紙だ。住民の多くが「1、2年なら我慢できる。でも10年後に復興住宅ができるとしたら何人が戻ってこられるのか」と口にする。

自宅に戻れぬまま…

 南さんも中谷区長も市外に中古住宅を購入した。いずれも高齢の親の世話のため、一軒家が必要だった。「仁江から足が遠のいていく自分がいる。道が凍結して、足を運びにくくなる冬が怖い。心まで遠のいてしまうんじゃないか」。南さんは声を絞り出した。

 古里に戻れないまま亡くなった人もいる。浦幸栄さん(58)=同県白山市=は仁江町に帰省中に地震に遭った。当時、父義雄さんが入院していた隣町の病院は機能停止となり、富山県内の病院へ転院。その後もたびたび転院を余儀なくされ、10月に85歳で息を引き取った。正月にはまだ元気だった父は居場所が変わる度、衰えが進み一度も自宅に戻れないままだった。

 父は地震で亡くなったよしいさんの弟に当たるが、姉一家の多くが犠牲になったことは最後まで告げられなかった。「きっと本人は気付いていたはず。でも地震については互いに何もしゃべらんかった」と浦さん。実家は9月の土砂崩れにのみ込まれ、帰る家はもうない。

それでも「水源探す」

 21日で豪雨から3カ月。年が明ければ地震から1年となる。中谷区長は、集会所に泊まり込んで新たな水源探しをすることにした。例年1月3日に開く地区の総会を来年は4月に実現したいと考えている。

 「秋に住民が集まった時、『集落を解散するか』と冗談を言うと、みんなものすごく怒ってくれた。だからまだ大丈夫だ」。能登の冬では珍しい青空を見上げ、自らに言い聞かせるよう力を込めた。【稲生陽】

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