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JR九州の日韓航路 近年は低迷、期待背負った新船が撤退引き金に

毎日新聞 2024年12月23日 14時26分

 JR九州が撤退を表明した日韓高速船事業は、福岡市と韓国第2の都市・釜山との間で1991年に就航して以降、約30年で延べ600万人以上を運び、アジアの玄関口として福岡の存在感を高める役割を果たした。ただ、近年は格安航空会社(LCC)との競争で乗客数が低迷。打開に向けて2年前に就航した大型の高速船「クイーンビートル(QB)」は慢性的な浸水トラブルを抱え、航路撤退の引き金になった。

 福岡市と釜山の距離は海を隔てて約200キロ。戦後、日韓を行き来する手段は航空便のほか、山口県の下関港を発着するフェリーなどが担い、博多港(福岡市)では90年、別の会社が釜山とのフェリー航路を開設した。

 国鉄分割民営化で87年に発足したJR九州は、関東圏や関西圏に比べると、人口密集地でのドル箱路線が少なく、経営基盤の弱さが課題だった。多角経営を模索する中、韓国との近さに着目して参入を決めたのが高速船事業。船は米ボーイング社が開発した水中翼船「ビートル」(定員191人)で、所要時間はフェリーの半分の約3時間を実現した。

 就航当時は赤字が続いた。2000年代になるとドラマによる「韓流ブーム」の追い風もあり乗客数が増加。航空便からシェアを奪い、04年度には年間35万人の利用でピークに達し、船は最大時には4隻体制となった。運航は05年、分社化した子会社「JR九州高速船」に引き継がれた。

 ところが08年のリーマン・ショック、11年の東日本大震災で乗客数が減少。日韓の政治対立で旅客数が左右される状況も続いた。さらにLCCの韓国便が福岡空港など九州各地に続々と就航。JR九州側は価格などで対抗したが、利用は最盛期の半分程度に低迷した。

 便数や所要時間とは違う付加価値でLCCに対抗しようと、JR九州は17年、QBの建造を決めた。アルミ合金で軽量化した三胴船で、JR九州の豪華寝台列車も手がけた工業デザイナー、水戸岡鋭治氏がデザインを担当した。近未来の乗り物を連想させる、とがった真っ赤な外観が特徴。JR九州は鉄道の活性化で車両のデザインや接客にこだわった観光列車を走らせる実績を重ねており、こうした手法を船旅に応用した形だ。

 船内はシートベルトなしで行動でき、土産物店やラウンジ、キッズルームを備えて旅の快適さを打ち出した。所要時間はビートルより約30分延びたが、定員502人と大型化。修学旅行などの団体旅行に商機を見いだそうとした。

 約60億円を投じて20年に完成したものの、新型コロナウイルス禍で日韓航路は運休が続いた。22年11月にようやくの航路再開で就航を迎えたが、他の船は売却されるなど事業縮小を余儀なくされ、運航はQB1隻体制となっていた。

 就航後は船首付近の亀裂に伴う浸水を繰り返した。トラブルへの子会社の対応も問題で、法令で定められた修理をせずに運航したとして23年に国土交通省から行政処分を受けた。さらに24年は浸水を隠して3カ月以上運航したことが国交省の監査で発覚。9月に再び行政処分を受けた。

 24年の問題発覚後、JR九州が設置した第三者委員会は報告書で、荒波の対馬海峡で高速運航する上で船体が「波の影響を受けやすい」と指摘し、船体補強の抜本的対策や、気象に関する運航基準の見直しなどを提言した。

 船は8月から運休し、JR九州側は修理を検討したが、船の軽量化ととがった形状のため船首付近は特殊な溶接が施されていて、技術的に難しいことが判明した。新時代の日韓航路を切り開くためのQBだが、投資の失敗となった形だ。【久野洋】

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