「活動は『恩送り』のようなもの。支援しているようで、こちらが助けられていることが多い」
国内外の被災地で支援活動を続けてきた男性は、これまでの取り組みをそう振り返った。活動のきっかけは、1995年1月の阪神大震災。その後、NGO「国境なき災害支援隊」を設立した。それを今月、次世代に引き継ぐという。
山古志村で広報役に
男性は1級建築士で在日コリアン3世の曺弘利(チョホンリ)さん(71)。神戸市で生まれた。
阪神大震災の時、神戸市須磨区の自身の事務所が全焼するなどした。仕事を失い、借金ばかりが膨らんだ。
「その日その日を生きることで、いっぱいいっぱいやった」
震災を経験し、自然災害が起こると気持ちがせくようになった。全国のボランティアらに助けてもらった感謝が心から消えなかったからだ。
「何か役に立てることがあるはずや」。災害は国籍や人種、政治信条などに関係なく襲ってくる。困っている人たちに、手を差し伸べるのは「当たり前のこと」だと思っていた。
それで2004年、新潟県中越地震で山が崩れるなどし、全村民がふもとの旧長岡市などに避難した当時の山古志村(現長岡市)に向かった。村に約1年間、住民票を移して、村長から広報役を任された。
新潟から戻ってきたある日、生まれ育った街が変容し、記録も残していなかったことに気付いた。街の記憶や生活史が消え、そして在日コリアンとして生きてきた街がなくなっていくように感じた。
すると、曺さんは建築士の図面作製の技能を生かして、被災地・神戸をスケッチ画に残し始める。震災直後に撮影された写真を参考にしたほか、損壊や焼失を逃れた建築物を訪ねるなどして描いていった。
思い出を確認するような作業に「心に負った痛手から立ち直るリハビリでもあった」と語る。
温かみのある作品に被災者喜び
それからも、災害の度に気持ちがせくのは変わらなかった。
11年の東日本大震災の直後にはNGO「国境なき災害支援隊」を結成。宮城県気仙沼市を拠点に支援活動をした。
その後は、東京電力福島第1原発事故の影響が色濃く残る福島県双葉町と大熊町に思いを寄せてきた。放射線量が基準値を下回るなどし、一部区域への立ち入り規制が解除された20年以降は両町に頻繁に足を運んだ。
支援に出向いた時にいつも手にしていたのが、スケッチブックとペン、水彩絵の具だ。被災地の街並みやそこで生きる人々らをスケッチして、住民に手渡す取り組みを続けてきた。
温かみのある作品は、長期の避難生活を強いられたり、復旧、復興作業に没頭したりする被災者らに喜ばれた。
双葉町と大熊町では、消えゆく街並みや貴重な建造物を描き起こし、町に寄贈する活動を続けている。町などに許可を得た上で、今も立ち入りが制限されている「帰還困難区域」にも入り、家屋の間取りや生活空間などを調査し、記録している。
放射性物質による被害を受けた両町の再生は、前例のない挑戦になる。
曺さんは「スケッチ画や記録を通じて、被災住民が長年築いてきた歴史の重みを感じてもらえるはず。街の記憶を思い出す手助けとして役に立てればうれしい。将来のまちづくりへの指針となり、ヒントにあふれていると思う」と話す。
活動を次世代へ
気付いたら、支援活動は20年余りに及んでいた。その間にイランやアフガニスタン、バングラデシュ、フィリピンなど海外の被災地にも赴き、児童館や集会所の建設なども手がけてきた。
24年元日の能登半島地震の被災地にも行った。石川県穴水町で住宅の補修や再建のためのアドバイスをする傍ら、スケッチ画を描いたり被災前の街のジオラマを製作したりして、町や住民に手渡している。
「故郷を奪われる恐怖は、実に人ごとではない。その思いからこれまで、やってきたんだと思う」
活動の集大成となるのが、今月16日に神戸市長田区で開いたシンポジウムだ。テーマは「ひとが暮らせる復興を」。自身が携わった旧山古志村や双葉町、穴水町の被災者らを招き、議論を交えた。
あの日から30年になるのを機に、NGO「国境なき災害支援隊」を学生たちに引き継ぐつもりだ。曺さんからのバトンを受ける関西学院大の竹川航平さん(22)と熊谷朋也さん(21)は意気込みを見せている。
「福島も能登も、現場に繰り返して足を運ぶことで、初めて気付くことも多かった。『忘れられることが最も心配』という被災者の思いを胸に、風化にあらがっていきたい」
曺さんは今後、学生らの活動環境を整える資金面や場づくりなど裏方として支えていくという。
「つながり合うことで学び合いが生まれ、支え合いの厚みも増すはずです」【高尾具成】