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「生かされているんだ」能登地震で妻子ら10人犠牲 伝えたい家族の夢

毎日新聞 2025年1月11日 11時30分

 金沢市内の自宅のドアを開けた瞬間、涙があふれて止まらなくなった。家族の靴がそのまま残る玄関。関東から帰省した息子2人の荷物が置かれた部屋。でも、もう自分以外の誰も帰ってこない――。妻と子ども4人の検視が終わった、2024年1月8日のことだった。 

 介護施設職員の寺本直之さん(53)は、能登半島地震の影響で発生した土砂崩れで、石川県穴水町由比ケ丘にあった妻の実家がつぶされ、中にいた妻と子ども4人、義父母らを亡くした。

 あの日から1年。今は金沢市の自宅を引き払い、市内の自身の実家で暮らす。自室の出窓に飾る家族5人の遺影に話しかけるのが日課だ。

 「おはよう」「帰ってきたよ」。遺影の前には、家族が昨年の元日に身につけていた腕時計やアクセサリー、スマートフォンなどが整然と並ぶ。「面白いもので、写真なのに笑いかけてくれたと感じる時もある」。皆がいない、という実感はまだない。

 昨年1月上旬から、メディアの取材を断ってきた。「話せる状態ではなかった」。寺本さんの家族や親族10人全員の遺体が地震の発生から1週間までに見つかり、その月の20日に葬儀を終えた。

 4月下旬まではさまざまな行政手続きや家族の職場へのあいさつなどに追われ、仕事もできなかった。

 「さみしい気持ちはあったけど、本当に毎日が過酷で、心が折れる時間なんてほとんどなかった」と振り返る。年の瀬に納骨を終え、ようやく心の区切りがついたという。

妻とは職場で出会い結婚

 寺本さんの家族は、職場で出会い結婚した介護福祉士の妻弘美さん(53)、神奈川県の病院で働いていた理学療法士の長男琉聖(りゅうせい)さん(24)、調理師で東京の有名日本料理店で修業中だった次男駿希(しゅんき)さん(21)、金沢市のスーパーの水産部門で働く三男京弥(きょうや)さん(19)、中学3年の長女美緒寧(みおね)さん(15)。

 一家は正月を弘美さんの実家で過ごすのが恒例だった。1年前のあの日、年が明けた午前0時20分、寺本さんは弘美さんにメッセージを送った。

 「(長女の)みいちゃんが笑える年になりますように」

 高校受験を目前に控える美緒寧さんを気遣った寺本さんの言葉に、弘美さんから「笑える年になると良いね」という返事が来た。子どもたちとも新年を祝うメッセージを交わした。

 夕方まで仕事があった寺本さん以外は穴水の妻の実家にいた。駿希さんは「お父さんが来た時に一緒に食べようね」と、修業先でこしらえたおせちを持参していた。ところが、午後4時10分、激しい揺れに見舞われた。

 「連絡ください」

 「みんな大丈夫か? 連絡ください」

 家族に何度メッセージを送っても既読にならず、電話もつながらない。「地震で回線が混乱しているのかな」。役場や知人に電話をしても状況が分からず、道も寸断されて現地に行けなかった。

 新年を迎えた直後のメッセージが最後のやりとりになった。

「最悪の状況やった」

 地震から3日後の4日夕、一緒に元日を過ごしていた義母が亡くなったらしいという連絡を受け、5日にやっと現場に入れた。跡形もなく崩れた家。「義母と一緒にみんなで病院に行っているかと思ったら、最悪の状況やった」

 この日午後に駿希さんが土砂の中から見つかり、全員が妻の実家にいると確信した。家族はいつも一緒だったからだ。

 遺体が次々見つかる中、寺本さんは「今までおった人が、次の日にはいないと思ったら苦しいでしょう。なんなんですか、これ」と泣き崩れた。

 この1年、自宅から運んだ遺品やアルバムを見て、少しずつ心を取り戻していった。皆の声が聞きたくなれば、地震前の夏、東京ディズニーランドなどを巡った家族旅行の動画を見て「こんな会話をしていたな」と懐かしむ。

一家の夢は飲食店

 寺本さん一家には夢があった。駿希さんがいつか金沢に戻って飲食店を開き、家族で手伝うことだ。

 弘美さんはその時に備え、友人のかっぽうで約2年前から仕事終わりにアルバイトをしていた。

 手先が器用な琉聖さんも「駿希が店を開くなら、自分も調理の道を考える」と話していた。京弥さんも、水産部門の経験を生かし貢献できたらと思い描いていた。

 息子たちが自立して家を出た頃、さみしがる寺本さんに、弘美さんは「結婚もすぐやよ。子どもは巣立つのが当たり前」と笑った。

 寺本さんが、そばにいた美緒寧さんに「お母さんがさみしいから、さっさと巣立って行ったらダメやぞ」と、自分の気持ちを込めて言うと、思春期で会話が減っていた娘は「うん」と答えた。

 うれしくて、今も胸に残っている。美緒寧さんは、両親や看護師だった祖母の影響もあり、人の世話をする仕事を視野に入れ、看護や保育を学べる高校を受験する予定だった。

 「うちの子どもたちには果たせなかった夢があった。それを(皆さんの)心に留めてもらい、私たちは『生かされているんだ』と言いたい」

 自分の被害を語ることで、災害の恐ろしさや備えの必要性、生きることの大切さを伝えたいと考えられるようになった。

 昨年7月からは、輪島市や七尾市で、支援物資配布や、被災者の困りごとを聞き取るボランティアにも加わった。今後も何かできればと考えている。「家族とはまた天国で会える。今は、生かされた命を精いっぱい生きたい」

 今年の元日に石川県輪島市で催された追悼式では、地震発生時刻に黙とうし、家族に祈った。「みんなのことを伝えていくよ。見守っていてね」【国本ようこ】

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