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いつでも帰ってきて、あなたの古里に 阪神大震災、犠牲児童への歌碑

毎日新聞 2025年1月13日 6時1分

 「山茶花(さざんか)の 白咲(しろさ)き初(そ)むる この庭は 子らのみ魂(たま)の かへるふるさと」

 神戸市立御影小学校(東灘区)の東門近くに高さ約70センチの石碑がある。阪神大震災で犠牲になった児童の数と同じ6本の木が白い花を咲かせる。元校長は「いつでもここに帰ってきてね、あなたたちのふるさとなんだから」と詠んだ。あの日何が起き、人々は艱難(かんなん)辛苦から日常を取り戻したのか。元PTA会長の小坂進さん(80)と元校長の小野慶子さん(80)に聞いた。

 ――あの日のことから。

 ◆小坂 木造住宅で暮らしていました。17日朝早くにドッカン、グラグラが来ました。人形ケースが飛び、ピアノは天井を突いていた。1歳から12歳までの子どもを含む家族9人で2階窓からはい出すと、火の手が上がっていました。きょうだいに子どもたちを預け、御影小に向かいました。

 長女の同級生の家は2階が1階を押しつぶしていた。子どもが脱出して火の手が迫り両親が犠牲になった家庭や、弟が下敷きになった家も。叫び声が今も耳から離れません。

 小学校に着くと約1000人が避難していました。プールから水をくんだり、炊き出しをしたりと卒業生が奔走していました。卒業式は体育館に避難された住民の前でやりました。涙が止まりませんでした。

 ◆小野 御影小で教頭と校長を務めたのは1995年春からの5年間。震災では大切な人や我が家を失ったことから記憶に蓋(ふた)をして、学校に来られない子どもが続出しました。家庭訪問すると、泣き出したり、震えが止まらなかったり、親が抱きしめないと眠れない子もいました。

 当時、半壊した自宅では夫が末期がんで療養中。高校3年と中学2年の息子が食事を作ったり、川から水をくんで洗濯をしたりして、支えてくれました。夫は9月に入院し、翌月昇天しました。

 ――皆、大きな傷を負いました。

 ◆小野 学校は子どもたちの安心できる場所でありたい。校庭で遊んだり、本の読み語りをしたりして、担任は心の叫びに寄り添いました。

 96年1月、今は石碑がある校門近くで4年生がスコップで土を掘っていました。「中庭のコンクリートの池にひびが入った。代わりの池を造りたい」と。中庭に場所を変え、全校児童が参加しました。97年春に完成すると休み時間や放課後に子どもたちがのぞき込み、ヤゴやトンボを見つけて職員室に駆け込んでくるんです。「地震は怖かったよね。でも、自然は優しいものでもあるんだよ」。ビオトープは傷ついた心を癒やし、命の大切さを学ぶ場になりました。

 ◆小坂 重機を持ってきて掘り進めたり、長田区のメーカーに掛け合って防水ゴムシートなどを無償提供してもらったりと、住民も参加する共同作業でした。子どもたちが元気になると保護者や地域にも広がっていきました。蛍の観賞会も企画しました。

 野坂昭如さんの「火垂(ほた)るの墓」の舞台にもなった御影小。神戸大空襲後の光景を再現するように、無数の鎮魂の光が学校を包み込み、約2000人が集まりました。今も池のほとりにたたずむ人たちがいます。学校が「心のオアシス」になったと実感します。

 ――慰霊碑が除幕されたのは2000年1月17日でした。

 ◆小野 御影小からの転勤が決まり、記念に何か残すことになり、慰霊碑以外にありませんでした。犠牲になった6人の子どもたちへ。魂がどこへ行こうとも、いつでもここに帰ってきてね。あなたたちのふるさとなんだから。生かされた後輩たちのいのち、元気に、楽しく、幸いがあるように見守っていてね、という気持ちです。

 ◆小坂 80歳になった今も毎週末、少年野球の指導に校庭に立ちます。プロに進んだ子、コーチとして戻ってくる子。震災後生まれの世代も増えました。

 御影は阪神大水害(38年7月)や神戸大空襲も経験して今がある。震災モニュメントは苦しみ、悲しみを分かち合い、震災の経験や教訓を語り継ぐ礎と感じます。1月17日午前5時46分にここに来て、供養をささげ、ご遺族との時間を大切にしたいと思っています。【聞き手・中尾卓英】

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