「せんせいあのね」で始まる日記があります。筆者は小学1年生の米津漢之(くにゆき)さん。「きょう、夕がたぼくとおかあさんといもうとで、あさってまでのごはんをつくりました」「ぼくが、カレーをつくりました」。そして最後は、「あした、たべるのがたのしみです」と結ばれています。日付は1995年の1月16日。この兄妹に、カレーを食べる「あした」は来ませんでした。
翌17日の午前5時46分。阪神大震災。兵庫県芦屋市津知町で両親と暮らしていた当時7歳の漢之さんは、妹の深理(みり)さん(同5歳)とともに、落ちてきた天井や倒れたタンスの下敷きになり亡くなりました。一緒に寝ていた父勝之(かつし)さん(64)は「16日は寝る場所をいつもと変えていた。朝早く仕事に行くため、私は出やすい場所に寝ていた。変えていなければ、との思いは消えない」
勝之さんは、漢之さんが通っていた芦屋市立精道小学校などで語り部を続けています。被災当初、息子と娘を一度に失って怒りと無力感にさいなまれ「もう二度と笑わない」とすら誓っていました。しかし震災1年後、精道小の追悼文集に目が留まりました。「死んでしまうこと。それは輝く人生を終え、他の人の心の中で、永遠に生きてゆくこと」。小学生がこんなことを考えているのに、自分は何をしているのか。体験を語り継ぐきっかけとなりました。
気持ちは、受け継がれています。震災後に生まれた次女、英(はんな)さん(27)は、兄(漢之さん)と姉(深理さん)に会ったことはないけれど、服やおもちゃは、お下がり。小さなころは姉の写真を自分だと勘違いしていたそうです。
英さんは、災害が頻発する中、世間の関心は、遺族の声よりも、身を守るための備えに向いているように感じられ、このままでは遺族の気持ちが忘れられてしまうとの危惧を感じていました。そんな中の19年冬、兄や自分が通った精道小の6年生の授業で勝之さんが話をすると聞き、参加しました。
最初に勝之さんが「阪神大震災なんて自分と関係ないと思う人は?」と問うと、数人が手を挙げました。しかし勝之さんが兄のランドセルやあの時に削ったままの鉛筆が入った筆箱などを見せながら話を進めていくと、子供たちのまなざしが真剣になっていくのを感じ、最後には質問が相次ぎました。
1カ月後、再び精道小を訪問。自分たちの話を聞いた6年生が、5年生に語り継ぐ授業でした。「遺族によって考え方、立ち直り方が違う。それぞれの悲しみを知りました」との発表を聞きました。英さんは「話を聞いてもらうことで、その人に新たな思いや考えを持ってもらえる」と、自分も震災後に生まれた「遺族」として、父から学び、震災を知らない若い世代とのパイプ役になりたい、と思うようになったといいます。
勝之さんは教室で、こうも問いかけていました。「震災を語り継ぐのは誰でしょう?」。一人の男子児童がハッとした表情でこう言いました。「そうや、俺らや」
今年は阪神大震災からは30年、敗戦からは80年。私たちは、当事者の声に耳をそばだたせ続ける社会でありたい、そしてバトンを各々(おのおの)が少しずつでも受け継いでいく社会でありたいと思っています。【大津支局長・藤田文亮】