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諏訪湖に戦車が乗った 「氷がミシミシミシと」 80年余前の記憶

毎日新聞 2025年2月10日 13時15分

 「凍った諏訪湖に戦車が乗ったのを見たお年寄りがいる」。こんな話を小耳にはさみ、長野県諏訪市のJR上諏訪駅にほど近い末広商店街を訪ねた。アキヤマ時計店を営む秋山英明さん(94)。現役の1級技能士時計修理工で、訪問時も置き時計修理の真っ最中だった。

 「軍事機密と言われたが、もういいでしょう。80年以上も昔のことだし、知っている人は誰もいないわけだから」。遠い記憶を手繰り寄せるかのようにしばらく目を閉じ、見開いた秋山さんの目には力がこもっていた。これまで人に話したことはほとんどなく、写真もない。自分の記憶だけ。そう言って秋山さんは問わず語りに教えてくれた。

 昭和15(1940)年の冬。秋山さんは、1クラス50人の大所帯だったという高島尋常高等小学校(現上諏訪小学校)3年10部の児童だった。

 2月初めごろのある日、担任の先生が「今日は内緒でいいとこに連れてってやる。見たことは絶対にしゃべっちゃあいけねえ」と言って、秋山さんのクラスだけ諏訪湖畔に連れて行った。

 するとそこに複葉機が飛来した。「わー、すげえ」。初めて見る飛行機に秋山さんらが興奮して見ていると、凍った諏訪湖に着氷。そのまま沖の方まで滑っていき、「グッと曲がって止まったと思ったら飛行機が傾いてね。羽根(翼)がポキッと折れちゃって。複葉機の赤トンボだから機体がもろかったんだろうね」。

 氷上ではグライダーを飛ばす訓練が始まり、しばらくすると2人乗りの小さな戦車が通りを走って湖畔にきた。戦車は数台いた。土手の手前で止まり「エンジンがかかって、上官が『進め』と号令をかけるんだけど、ちっとも動かない」。見ていた子供たちが「落ちないから大丈夫だよ。行け行け」とはやし立て、ガタゴトとようやく動き始めた戦車は、土手を越えたと思うと、せり上がった氷の上に滑り落ちた。「岸から20~30メートルくらいのところで止まりましたね。氷がミシミシミシと大きな音を立てました」。

 戦車はすぐバックしてきたが、今度は土手にせり上がっている氷で滑って上がれない。土手の氷は厚くて20センチ以上あり、「勢いよくいっても空回りして滑り落ちて。兵隊さんたちで引っ張っても上がれなかった」。子供たちが「おれらも手伝うぞ」と一緒に引っ張って、ようやく陸に上げたという。秋山さんは「戦車が乗った時の氷のミシミシという音と、おっかねえ(こわい)顔をした戦車の兵隊さんの顔は今でも忘れない」と振り返る。

 後年、秋山さんは「戦車が諏訪湖(の氷上)に乗ったらしい」といううわさ話を耳にしたが、軍事機密と言われていたため「その場にいた」とは言えなかった。担任の先生は当時、「樺太の国境警備に備えるための訓練だ」と言っていたが詳細は分からない。

 秋山さんのクラスには、後に彫刻家として国内外で活躍し東京芸術大学教授を務めた故細川宗英さんがいた。「そりゃあものすごく絵がうまかった。細川も一緒に戦車を引っ張りました」と秋山さん。戦車の絵も描いたが、「機密のことだから、この絵は俺がもらっておくぞ」と言って担任の先生が手元に置いたという。

 このとき一緒にいた同級生49人はすでに亡く、「みんな向こうへいっちゃって、生きているのは私ひとり。あの日はすごい1日でした」。唯一、歴史の「生き証人」となった秋山さんはそう言って懐かしんだ。【宮坂一則】

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