太平洋戦争末期の1945年2月、栃木県足利市(当時は御厨町)百頭町が米軍の爆撃を受け、住民ら33人が亡くなった「百頭空襲」から10日で80年になる。県内で初めて死者が出た大規模空襲だが、戦禍を知る人は減り、10年前には開かれた慰霊祭もないまま節目を迎える。当時国民学校2年生で、親戚4人を亡くした同所、岡村良司さん(88)は「悲惨さを知る人が亡くなり、勇ましい声ばかり大きくなる。戦争がだれも幸せにしなかったこと、みんな忘れちゃうのかね」と話した。
地元有志の調査によると、爆撃したのは米軍のB29の編隊。同日午後に東から飛来し、わずか76戸の百頭町内に83発の250キロ爆弾と多数の焼夷(しょうい)弾を投下した。爆撃で2歳の女児から80歳の男性まで住民27人と町外からの来訪者ら6人が死亡。入院の17人を含め多数の負傷者が出た。県内の空襲による犠牲者数では、同年7月の宇都宮空襲に次ぐ。
岡村さんは当時8歳。父は出征しており、曽祖父と祖父母、母と弟2人、叔父と叔母が同居する大家族だった。空襲当日は登校した記憶はなく、自宅で空襲警報を聞いて敷地内の防空壕(ごう)に入った。9人全員が在宅しており、広さ3~4畳、高さ1メートルほどの狭い壕内で身を寄せ合った。
神社の先達をしていた84歳の曽祖父が祈とうを続ける中、ヒューという風切り音に続き、ドーンという爆発音がとどろき、その度に天井や土壁が崩れた。すさまじい爆音に混じり、パーンと言う破裂音がいつまでも続いた。裏のたけやぶが焼け、竹がはぜる音だったことは後で知った。
壕を出ると母屋が崩れていた。直撃は免れたが、爆風で倒壊し、翌日に残り火で全焼した。隣の親戚宅では家族5人のうち両親と長男が亡くなっていた。警防団の副団長だった親戚は火の見櫓(やぐら)で警戒中、爆弾の直撃を受けて即死した。
空襲後、爆弾の破片を拾い集める作業をしていた際、岡村さんは手のひら大の肉片を見つけた。人間のうなじ部分だったが、生え際に見覚えがあった。「間違いなく警防団のおじちゃんだった。今もはっきり覚えている」と振り返る。
戦後40年を目前にした84年、地域の有志が犠牲者の慰霊碑建立に動き出し、翌年2月10日、空襲の概要と犠牲者名を刻んだ慰霊碑を除幕、慰霊祭を営んだ。2015年2月8日には70周忌を開いた。さらに10年が経った今年だが、空襲に合わせた慰霊は見送られた。
岡村さんは「地区内でも空襲を経験した当事者は数えるほどになった。遺族も高齢化しており、地域だけで引き継げる問題ではない。戦争はばかげている。勝っても負けても得をしない。自由にものを言えるのは素晴らしい。80年前に私は身に染みて感じたが、伝えるのが難しい時代になってしまった」と話した。【太田穣】