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「医療界の革命児」徳田虎雄氏の足跡「生命だけは平等ですから」徳洲会設立、政界進出、保徳戦争…波乱万丈の一生を振り返り 鹿児島

MBC南日本放送 2024年7月11日 20時5分

日本最大級の病院グループを築いて国政にも進出し、波乱万丈の人生を送った徳田虎雄さん。足跡を振り返ります。

(徳田虎雄さん)「生命だけは平等ですから。金持ちでも庶民でも都会でも農村・離島でも、だれもが最善の医療を受けられる社会ということを理想としている」

徳田虎雄さんは1938年に徳之島に生まれ、大阪大学医学部を卒業したあと、1975年に医療法人・徳洲会を設立しました。

徳田さんは、医師会は患者本位の医療を行っていないと批判しながら、年中無休・24時間診療を行うことや、患者からの贈り物は受け取らないなど斬新な理念を掲げて全国に次々に病院を開設。医療界の革命児と呼ばれました。

鹿児島県でも、鹿児島市の拠点病院から医師を交代で派遣するというやり方で、医療の恩恵が受けられない離島やへき地に病院や診療所を次々に開設しました。

(徳洲会理事長 徳田虎雄さん)「やっぱり加計呂麻の人の思いが、この病院をオープンさせてくれた」

一方、徳田さんの積極的な病院建設計画は、医師会の激しい反発も招きました。

鹿屋市では徳洲会の病院建設に反対する医師会が、子どもたちへの予防接種をボイコットするという事態も起きました。

(鹿屋市医師会 梅北豊二会長)「割り込んでくる側が話し合いに来て、お互いに了解してから造るべきと思うが、徳洲会からの面会申し入れは一回もない」

徳田虎雄さんは、医療改革には政治の力が必要だとして、1983年の衆議院選挙に郷里の奄美群島区から出馬しました。自民党の保岡興治さんとの激しい選挙戦は、「保徳戦争」と呼ばれ、全国の注目を集めました。

(保岡興治さん)「切って切って切りまくって、最後に敵の大将の首をはねる」

(徳田虎雄さん)「奄美は世界一おかしい島、貧しい島、不幸な島だと思う。こんな奄美にだれがしたと言いたい」

徳田さんは保岡さんに2度、はね返されたあと1990年の3度目の挑戦で初当選。自由連合を結成しました。

(徳田虎雄さん)「民主主義は生きているなという感じ」

10年以上にわたる徳田さんと保岡さんの対決は、奄美全土を巻き込んでいきました。両派の代理戦争となった1991年の伊仙町長選挙は、不在者投票の扱いを巡って、当選者が1年半も決まらないという異常事態となりました。

奄美群島区が鹿児島1区と合区した1993年の衆院選では、過半数を維持できなかった自民党本部が、無所属で当選した徳田さんを追加公認。しかし医師会は激しく反発しました。

(鹿児島県医師会 鮫島耕一郎会長)「徳田虎雄氏の自民党への追加公認は、県の医師会としては強く反対する。最悪の場合は(県医師会の)2300名の集団脱党に踏み切りたい」

徳田さんの自民党への入党は医師会の強い反対で取り消されることになりました。

(徳田虎雄さん)「(反対しているのは)首脳部の一部。日本医師会も私が指導しないと、医療界はうまくいかないのでは」

徳田さんは小選挙区制が導入されたあとも、鹿児島2区選出の衆議院議員を務め、2003年には4回目の当選を果たしました。

しかし徳田さんはこのころ、体を動かす神経が除々に侵されていく難病のALSを発症していました。

そして次の2005年の衆院選で体調不良を理由に引退表明、後を継いだ次男の徳田毅さんが当選しました。

(初当選 徳田毅さん)「父にもいい報告ができます」

政界引退から5年後の2010年、徳田さんが東京の自宅でMBCの取材に応じました。

相手の言葉は理解できますが、自分では声を出すことができないため、透明のボードに書かれた平仮名を目で追って付き添いの人に伝えます。

(徳田虎雄さん)「病気をしていても、気の持ち方で元気な時と同じように生きていけるし、仕事を出来るということを知ってほしい」

2012年10月、徳田さんは2003年の衆院選以来、9年ぶりに故郷の徳之島に帰りました。

(徳田虎雄さん)「与論島、沖永良部島、徳之島を回ってきたが、医療の安全と安心に役立っていると実感した、(徳洲会)理事長としての生きがいを実感した」

それから1年後の2013年、徳田虎雄さんと徳洲会を激震が襲います。

東京地検特捜部は、前の年の2012年の衆院選鹿児島2区で、徳田毅議員の陣営に派遣した徳洲会グループの職員に多額の報酬を支払った、公職選挙法違反の買収の疑いで、徳洲会本部や徳田毅議員の事務所などを家宅捜索しました。

そして、買収資金などを用意したとして徳田虎雄さんの家族など10人が起訴され、有罪判決を受けました。

当選した徳田毅議員は起訴されませんでしたが、一連の事件の責任をとって衆議院議員を辞職しました。

この時、徳田虎雄さんは病気を理由に不起訴処分になりましたが、一連の事件の責任を取って、徳洲会の理事長などの役職を辞任。その後は表舞台から姿を消した形になっていました。

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