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拉致事件を風化させないために 続く市川健一さん(79)の闘い

MBC南日本放送 2024年8月12日 19時35分

鹿児島県日置市の吹上浜で、市川修一さんと増元るみ子さんが北朝鮮に拉致されて、きょう8月12日で46年です。発生から半世紀近く経つ中、市川修一さんの兄・健一さんは、事件を風化させまいと活動を続けています。

(市川健一さん)「こんにちは。拉致被害者家族の市川です。拉致問題を忘れないで下さい。情報があったら警察の方へ」

日置市の吹上浜で、市川修一さんと増元るみ子さんが北朝鮮に拉致されて46年になるのを前に、修一さんの兄・健一さん夫婦は、2人が拉致される前に訪れたさつま湖の近くで、ドライバーにチラシを配り、今年も情報提供を呼びかけました。

今年は若い世代も加わりました。拉致に関する作文コンクールで、去年、最優秀賞に選ばれた川内高校1年・羽島奈穂さんです。健一さんからの誘いで、呼びかけに参加しました。

(川内高校1年 羽島奈穂さん)「私にできることは少しかも知れないが、全力でして、いろんな人が知って、またその人たちが手を差し伸べてくれたら」

(市川健一さん)「長い歳月が経って心が折れるときもある。でもこうして若い人たちが一緒に闘ってくれるのは、頑張らなきゃという気持ちになる。本当にありがたい」

(記者)「情報提供を呼びかけていた、さつま湖の畔から車で5分ほどの海岸に来ています。市川修一さんと増元るみ子さんは46年前、ここ吹上浜に夕日を見に来た後、消息を絶ちました」

当時交際していた2人は、1978年8月12日、日置市の吹上浜で北朝鮮に拉致されました。付近では、修一さんのサンダルや車が見つかりました。

2002年の日朝首脳会談で、北朝鮮は日本人13人の拉致を認め、このうち5人が帰国しました。しかし、修一さんやるみ子さんら残る8人について、北朝鮮は「死亡した」と説明。客観的な証拠は示されませんでした。

その後、日本と北朝鮮は2014年、スウェーデンのストックホルムでの協議で、拉致被害者の再調査などに合意しましたが、10年が過ぎた今も事態は進展しないままです。

(会社員(27))「学校で(習って)聞いたことがある。吹上浜で(拉致)と聞いた」

(高校生(17))「よく分からないが、(拉致という)言葉は知っている(Q.鹿児島の人が拉致されたのは?それは知っています」

(高校生(17))「ニュースで少し知っている(Q.鹿児島の人が拉致されたのは?)それは知らなかったです。最近はテレビでは(拉致問題を)見なかった」

「拉致事件」を言葉で知っていても、詳しいことは分からないと答えた若者が多い印象でした。

(市川健一さん)「私たちが一番心配するのは、風化することなんです」

コロナ禍で一時、活動自粛を余儀なくされましたが、高校での講演や夏祭りでの署名活動など、若い世代にも粘り強く事件を伝えてきました。

(市川健一さん)「若い人たちは生まれていないときに起きた事件。私たちの話をじかに聞けば、大変な事件、問題だと。だから時間があったら、若い人にも訴えていこうと決意している」

修一さんが暮らした実家は10年以上前に建て替えられましたが、リビングの吹き抜けには、修一さんが拉致される前、両親に贈ったシャンデリアが据え付けられています。

(市川健一さん)「このシャンデリアとか、母親への大島紬とか。(両親を)温泉に連れて行っていた。(修一さんは)なにせ両親には優しかったよ」

末っ子だった修一さんを、父・平さん、母・トミさんもかわいがっていました。しかし、息子との再会を果たせぬまま、両親は亡くなりました。

(市川健一さん)「私が一番残念なのは、両親に会わせてやれなかった。それが本当に心残りなんですよ」

修一さんは今年で70歳。健一さんも79歳になりました。被害者もその家族も高齢化が進む中、拉致事件における「風化」にだけでなく、「時間」との闘いも厳しさを増しています。

一日も早い日朝首脳会談を実現するためには、国民の支持が必要だと話します。

(市川健一さん)「国民の強い支持があれば、外交は動く。そのために私たちは、みなさんにこの悲惨な残虐な拉致を訴えている。力を貸してほしいんです。なにせ修一の話を聞きたい。声を聞きたい。そのためにも元気でいてくれと。しっかりと気力を持って待っていてほしい。それしかない」

愛する肉親との再会まで、家族の闘いは続きます。

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