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特攻で戦死した兄 母の遺言胸に供養続ける79歳の弟「二度と戦争ないように」

MBC南日本放送 2024年8月14日 19時6分

特攻隊員として出撃し当時19歳で戦死した男性の弟が鹿児島市に暮らしています。
兄の供養を続け「悲惨な戦争は二度と起こしてはいけない」と願い続ける男性を取材しました。

太平洋戦争中、陸軍の特攻基地があった南九州市知覧町で今年5月、戦没者慰霊祭が開かれました。全国各地から集まった遺族ら630人のうちの一人、鹿児島市に住む永田弘さん(79)です。

(永田弘さん)「兄のために毎年(慰霊祭に)行くようにと母から言われていたものだから」

永田さんは28年前に亡くなった母親との約束を守るため、毎年、知覧町の慰霊祭に参列しています。

(永田弘さん)「(兄は)陸軍学校に行ってから、確か2~3回ぐらいしか帰ってこなかった」

終戦の年の1945年、宮崎・都城市から特攻隊員として出撃して戦死した兄の永田利夫さん(当時19歳)です。利夫さんは10人兄妹の長男で、この時、永田さんは母親のおなかの中にいました。

まじめで働き者だった母・サエさんと、いつも冗談を言って朗らかな性格だった父・豊志さん。両親は米や麦、カボチャなどをつくりながら生計を立てていました。

(永田弘さん)「両親が『もう勉強やめて寝ろ』と言っても(利夫は)寝ないで勉強していた。母や父にすれば自慢できる息子じゃなかっただろうか」

小さい頃から飛行兵を夢見て勉学に励んでいた利夫さん。尋常高等小学校で12歳だったころの通知表には優秀な成績を示す「甲」の字が並んでいます。

15歳のときに福岡の大刀洗陸軍飛行場で働きながら勉強し、17歳の時に少年飛行兵の試験に合格。埼玉の陸軍飛行学校にいきました。戦況が厳しさを増す1945年4月、家族は面会に呼び出されます。

(永田弘さん)「最後は特攻にいくと、面会だと言ってきて、父と姉が行った。母がおはぎを作ってみんなで食べて。母は私が生まれたばかりだったから(面会に)行けなかった、それを悔やんでいた」

利夫さんが出撃した宮崎の都城東飛行場跡地。今は小さな公園に石碑が残っているだけです。

都城基地からは18歳から30歳までの79人の特攻隊員が出撃して戦死。19歳だった永田利夫伍長を含め20歳以下の隊員が過半数を占めています。

「家族が悲しむ」という理由で遺書を残さなかった利夫さん。出撃前日の1945年5月3日、自宅上空を旋回する飛行機が複数の近隣住民に目撃されていました。

(永田弘さん)「家の上空を2~3回飛んで、飛んで行ったという話だった。最後の挨拶ということで飛行したのではないか」

当時5歳だった永田さんの姉・トシ子さん(84)です。兄の利夫さんが亡くなったことを知らせるハガキが自宅に届いた日のことを今も鮮明に覚えています。

(永田トシ子さん)「郵便配達員が葉書を持ってきた。(兄が)亡くなったと。沖縄に行って、飛行機で飛び込んで死んだんだって。それっきり(父母は)その日、仕事をしなくて。それぐらいしか記憶がない」

兄が戦死して29年後の1974年に父・豊志さん(74)が、1996年に母・サエさん(92)が亡くなりました。サエさんは生前、毎年欠かさず、都城市と知覧町で開かれる慰霊祭に参列していたといいます。

(永田弘さん)「『自分が(慰霊祭に)行けなくなったら、お前たちがずっと行ってくれね』といつも(母が)言っていた、口癖のように」

永田さんは6年前、自宅の敷地内に戦死した兄のことを記した石碑を建てました。戦争を風化させることなく平和を願う思いが込められています。

(永田弘さん)「子ども、おい子、めい子が遊びに来た時、石碑があれば『これは何だろうか』とよくわかるだろうと。(兄は)あとに残った者の平和を願って行ったのではないだろうか。『二度と戦争がないように』という思いもある」

母との約束を守り兄の供養を続ける永田さん。生かされたことに感謝しながら79年目の夏を迎えます。

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