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平和を願い死んでいった特攻隊を見送った女学生「なでしこ隊」95歳が語り継ぐ79年目の証言

MBC南日本放送 2024年8月15日 19時17分

こちらは太平洋戦争末期、特攻隊の出撃を見送る様子を写した写真です。現在の南九州市知覧町にあった陸軍の基地で撮影されました。桜の枝を持って並んでいるのは地元の女学生で、当時、出撃前の隊員の世話や見送りをしていた「なでしこ隊」です。

同じ世代の若者が出撃していく姿を見とどけた、なでしこ隊の女性の79年目の証言です。

「来たよ。会えてよかった。きょうも」

鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館にある特攻平和観音像に手を合わせる女性。市内に住む、桑代チノさん(95)です。

79年前。知覧高等女学校の3年生だった時、日本軍からの命令で陸軍の知覧基地から出撃した特攻隊員の身の回りの世話や見送りをしていました。当時15歳でした。

(桑代チノさん)
「(三角兵舎に)入って、2人ずつ配置された。ボタンのはずれを縫って、終わったら洗濯。ハンカチ、くつした、手袋、マフラー。そのくらいだったと思う。その次は兵舎の掃除」
「その合間に、特攻隊が出撃。『何時に』と言われたら、もう何があれ、それは放っておいて走って行っていた」

学校の校章がなでしこの花だったことから、戦後、女学生たちは「なでしこ隊」と呼ばれるようになりました。

太平洋戦争末期、知覧基地からは439人が特攻隊として沖縄へ出撃し、戦死しました。

今年5月の慰霊祭。なでしこ隊だった三宅トミさん(94)の姿もありました。

(三宅トミさん)
「ずっと来ています。二度とあんなことがないように。みなさんのおかげで平和にしていますからね」

当時100人ほどいた「なでしこ隊」ですが、今年、出席したのは桑代さんと三宅さんの2人だけでした。

(桑代チノさん)「2人しかいない」
(三宅トミさん)「さびしいなぁ」
(桑代チノさん)「さびしいけど仕方がない。ありがとうね」
(三宅トミさん)「良かった会えて」
(桑代チノさん)「会えて良かった」

1945年4月1日から始まった知覧基地からの特攻作戦。同年代の若者が飛び立つ姿を複雑な思いで見送ったといいます。

(桑代チノさん)
「毎日、1日も(見送りに)欠けていないから相当見送ったと思う。爆弾を抱いている。250キロ爆弾を抱いて。木っ端みじんだったと思うよ。本当にどうしたらいいか(特攻に)行ってもらわないと(戦争に)負ける。この人たちも僕たちが行かないと負ける。私たちも、この人たちが行ってもらわないと、戦争に負けると」

桑代さんは「同世代の特攻隊員の死と向き合い、青春のなかった女学生時代のことを思い出したくない」と、戦後、当時のことは家族にも話しませんでした。

(桑代チノさん)
「20歳前後で死んだ彼らのように、私は『明日死ね』と言われたらどうしようと。昔を考えると、あんな若い人を。本当にその当時を知らない人は分からない。私が口で言っても分からないと思う」

しかし、60代の頃、長男の照明さんになでしこ隊について書かれた1冊の本を手渡します。

(長男・照明さん)
「“群青”というなでしこ隊が証言した本があった。これを読んでみなさいと母から預かって。塗木(旧姓)チノという名前があったので、おふくろもなでしこ隊だったんだと、そこで自分でも分かって。
“特攻隊を見送ったなでしこ隊、奉仕した女学生だった”と話してくれた。それでも具体的には話はしてくれなかった」

母がなでしこ隊だったと知った照明さん。60歳で警視庁を定年後、知覧に戻り、知覧特攻平和会館で語り部として活動を始めました。

(長男・照明さん)
「(母から)もっと勉強して本当の事実を伝えてくれと」

知覧特攻平和会館にも「なでしこ隊」に関する史料はほとんどありません。照明さんはチノさんらから直接話を聞き、より多くの事実を伝えていきたいと話します。

(長男・照明さん)
「当時の女学生だった14、15歳の子どもたちの心境を、これからの今の14、15歳に伝えておけば、伝わるものは本当にストレートに伝わるのではないかと」

(桑代チノさん)
「その当時はそういう教育を受けていた。命令には従う、親には孝行、国には忠義。目上には逆らわない。あの時は普通だと思っていた。
語り継ぐともいうけれど(これからの)教育の中にも、こんな悲しいこと、大変なこと(があったこと)を織り込んで欲しい」

多くの人の日常が奪われたあの戦争から79年。平和を願い死んでいった特攻隊員の思いが静かに語り継がれます。

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