今年は昭和100年にあたる節目の年です。MBCでは「昭和からのメッセージ」と題し、かつての映像とともに昭和をひも解き、今を生きる私たちへのヒントを探ります。
鹿児島県の志布志湾沿岸、東串良町にある「国家石油備蓄基地」。昭和60年1月に着工しました。この建設を巡って半世紀ほど前、住民らによる大規模な反対運動が起きました。今回の昭和からのメッセージは、「地方と国策」について考えます。
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Q.ここが当時、集会をしていた場所?
(武田佐俊さん)「そうです。海では船上パレード。船で漁民のみなさんが抗議をした場所です」
東串良町の柏原海岸から海を望むのは、武田佐俊さん(81)です。沖合にある国家石油備蓄基地。昭和60年1月に整備が始まりましたが、そこに至るまでには紆余曲折がありました。
備蓄基地整備前、昭和51年=1976年の志布志湾です。海には漁船、砂浜には鉢巻をした人たちが、一帯を埋め尽くしました。海岸を埋め立てる開発計画に反対するため、住民らが立ち上がったのです。当時、国鉄の労働組合で活動していた武田さんも、声を上げました。
(武田佐俊さん)「陸からは抗議集会。タイヤを燃やして、暴力以外はいろんな抗議行動をした。こういう素敵な海を埋め立ててはいけないという思いは一致していた」
開発計画の背景には、地域の「人口流出」がありました。昭和20年代の終わりに始まった高度経済成長では、集団就職などで多くの若者がふるさと鹿児島から都市へと移動。
この流れに歯止めをかけようと、県が昭和46年=1971年に打ち出したのが、「新大隅開発計画」です。
国定公園でもある志布志湾を埋め立てて、石油コンビナートや造船工場などを建て、3万2000人の雇用を生み出すプランで、国が打ち出した「新全国総合開発計画」に沿う事業でした。
時代は高度経済成長、真っ只中。戦後日本が活気づく一方で、大気汚染や水質汚染などの環境破壊は深刻化…。八代海沿岸では水俣病による健康被害の報告が上がり始めていました。
こうした中、県の新大隅開発計画も激しい反対運動が勃発。計画の一次試案は、昭和47年=1972年、廃案に追い込まれます。
(藤後昇一さん)「象徴的なのがこの言葉です。『青空の下でビフテキを食うために』」
志布志市の藤後昇一さん(74)です。東京の大学を卒業したあと、20代でふるさとに戻って反対運動に加わり、武田さんと出会いました。
“光化学スモッグの下でビフテキを食べるよりも、煙のない青空の下で梅干しを食べたい”
スローガンを掲げた運動の中心にはいつも、地元住民がいたと言います。
(藤後昇一さん)「どこに行っても割烹着を着た女性のデモや集会での参加人数は相当なものだった」
昭和48年=1973年、第1次オイルショックで高度経済成長が下火になる中、その4年後に就任した鎌田要人知事です。計画反対が続く中、埋め立て規模を当初の半分に縮小し、石油備蓄基地建設を盛り込んだ新たな計画を決めました。
しかし、反対運動は激しさを増し、県議会に反対派が乱入。警官隊が出動する事態に…。
結局、志布志湾は石油備蓄基地の整備だけで終わりましたが、地元漁協は補償金と引き換えに、漁業権を放棄。港はにぎわいを失いました。
(武田佐俊さん)「ここです。パチンコ店。みんな入り浸ったと思う」
補償金が支払われたころ、地域にはパチンコ店が4軒できましたが、いまはすべて店を閉じています。
(武田佐俊さん)「象徴的じゃないですか。補償金で過ごしていたであろう建物と、一番生活の糧になった漁船が放置されている。人間の心が荒廃していくはずですよね」
「新大隅開発計画」について、現地調査をしたこともある鹿児島大学の平井一臣名誉教授です。近年は、「住民が声を上げることが難しくなっている」と指摘します。
(鹿児島大学 平井一臣名誉教授)「60年代、70年代は、日本の社会がきょうよりはあすがもっと良くなるという思考があった。いまは特に地方で『消滅』とまで言われて、あきらめというもので、なかなか国策に対して物申すみたいなことに、つながっていないと思う」
あの反対運動から50年あまり…。県内では国のエネルギー政策を担う原発が2基稼働しているほか、かつて石油備蓄基地の整備が検討された馬毛島では、国の安全保障に関わる自衛隊基地の整備が進められています。
地方が「国策」とどう折り合いをつけるのか。平井名誉教授は、「依存しない姿勢が重要だ」と話します。
(鹿児島大学 平井一臣名誉教授)「国策というのは未来永劫続くものではないということ。それだけに依存するような地域のあり方は極めてリスクが高い。それ以外のセーフティーネットを持っておかないと、いつどのような環境で、国策がコロッと変わるか。そういうものが国策であるという、少し冷めた認識を持つ必要があると思う」
新大隅開発計画の規模は大幅に縮小されましたが、かつて「白砂青松」と言われた柏原海岸の風景は、変わってしまいました。
(武田佐俊さん)「結局、経済と引き替えに自然環境が犠牲になった。何より住民の子どもたちの将来を閉ざすような埋め立てではなかったか。まあ元に戻らないですね」
「国策」と、どう主体的に向き合っていくべきか。人口減少時代を地方で生きる私たちに問われています。