シリーズ「昭和からのメッセージ」です。今年は、昭和100年にあたる節目の年。当時の映像とともに昭和をひも解き、今を生きる私たちへのヒントを探ります。
今回は、噴火を繰り返してきた霧島連山の新燃岳。災害と隣り合わせで生きる人たちの思いです。
火口から立ちのぼる噴煙。ふもとに大きな噴石が飛び、木々がなぎ倒されています。昭和34年、2月17日。霧島連山の新燃岳で江戸時代以来、137年ぶりに起きた噴火の映像です。
現在の霧島市や宮崎県の小林市や高原町に多量の噴石と火山灰が降り注ぎ、農作物などに大きな被害が出ました。
新燃岳火口からおよそ8キロ離れた霧島市霧島田口です。
佐藤春雄さん(92)と、妻のシヅコさん(91)。噴火が起きた66年前、2人は結婚して2年目でした。佐藤さん家族に被害はなかったものの、当時の様子は今でも記憶に残っています。
(佐藤春雄さん)「家からは霧島連山が全部見える。何もないところに、きのこ雲みたいにぽーっと上がって」
(妻・シヅコさん)「そのときは庭にいた。ドンといったとき。すごく上まで雲がきて怖い感じがした。もくもくしていた」
鹿児島と宮崎にまたがる霧島連山。新燃岳を含め20以上の火山が連なる国内有数の火山群です。
霧島は、温泉をはじめ活火山の恵みを受けてきました。特に、戦後、復興景気に沸いたころ霧島は観光地としてにぎわい、皇太子夫妻が訪れたこともありました。
(佐藤春雄さん)「その頃はホテル林田温泉などがあり観光客が多くてにぎわった」
「新婚さんがよく霧島に来て霧島神宮に参拝をして、修学旅行もよく来ていた」
(妻・シヅコさん)「霧島神宮のお祭り。参拝に行っていろんな演芸があって。一日中神宮前で食事をしていた」
「春分の日や豊年ほぜ祭りがあったり、そんなときはたびたび神宮に行っていた」
昭和34年以降、新燃岳で噴火はなかったものの、平成に入った1991年に噴火。佐藤さん夫婦は再び、火山の脅威を目の当たりにしました。
(妻・シヅコさん)「畑にビニールハウスを作っていた。ドーンといったときに家にいて、音がしてから上に上がってみたらビニールハウスがちりぢりに破れていた」
その後、噴火は2008年、2010年にも発生。そして…
2011年1月26日、およそ300年ぶりに起きた本格的なマグマ噴火。噴煙は火口からおよそ7000メートルまで上がり、火砕流も発生しました。
宮崎県側には、多量の軽石や火山灰が降り、車のガラスが割れるなどの被害が出ました。
(訓練・先生)「怖くなくなるために訓練をする。自分の命を守るためにする」
あの噴火以来、新燃岳のふもと、霧島小学校では毎年、14年前の噴火が起きた日にあわせて避難訓練を行っています。
当時の噴火では、近くの温泉街も被害を受けました。
(焼肉厨房わきもと 脇元敬社長)「ぱっと山を見たら大きな噴煙が上がっててびっくりしました」
飲食店を経営する脇元敬さん(55)。温泉街は新燃岳火口からおよそ6キロ離れていますが、14年前、空振=空気の振動で建物の窓ガラスが割れるなどの被害が出ました。噴火の影響で観光客は一時、遠ざかり、店の売上げも前年の半分ほどに落ち込んだといいます。
(焼肉厨房わきもと 脇元敬社長)「日に日に宿泊業・飲食業、観光業にキャンセルの電話が相次いで、当時は大変な時期を迎えた」
「3割4割減は当たり前で、中には5割減6割減、7割減という事業者もいた」
新燃岳は、2011年の噴火のあと、2017年と18年にも噴火を繰り返しました。脇元さんは、噴火のたびに苦しめられながらも、火山と「共生」していきたいと考えています。
(焼肉厨房わきもと 脇元敬社長)「観光客がきてくれて生活ができていて、それは霧島の山があって、温泉が湧き出ていてそういう恵みを受けて生活をしているので、これからもこの霧島の山々とは一緒に暮らしていくという覚悟を当時持った」
昭和から続く噴火を体験してきた佐藤さんです。佐藤さんにとって、昭和はもう1つ、忘れられない出来事があります。中学生の時に目の当たりにしたアメリカ軍機の空襲です。
(佐藤春雄さん)「高いところから霧島神宮を見ると、飛行機が目下の方に見えて、機銃掃射のバンバンバーンという音が耳に入って、本当にあの恐ろしさは今も忘れていない」
昭和の戦争体験は噴火とともに、「命」について見つめ直す出来事でもありました。
(佐藤春雄さん)「昭和を振り返って一番考えることは、命の大切さ。噴火はできるものなら起きない方がいいが、これはもう自然の任せ。これだけは肝に銘じている」
命の大切さを、時代をこえて胸に刻み続けています。