シリーズ「昭和からのメッセージ」です。今年は、昭和100年にあたる節目の年。当時の映像とともに昭和をひも解き、今を生きる私たちへのヒントを探ります。7回目は「ロケット」です。
現在、国のロケット打ち上げ施設は、肝付町の内之浦と、種子島の2か所だけです。最初にできたのが、1963年の内之浦で、その6年後が種子島でした。日本の宇宙開発の歴史を作った内之浦の歩みと、地域との絆を見つめます。
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これまで400以上のロケットを打ち上げてきた内之浦宇宙空間観測所。「日本の宇宙開発の父」と呼ばれた、東京大学・糸川英夫博士によって1963年に作られました。
観測所でロケットの点火に携わってきた中部博雄さん(78)。中部さんは兵庫県出身で、内之浦で働くきっかけになったのは、中学生の時に見た新聞記事でした。
(元JAXA職員 中部博雄さん)「内之浦宇宙空間観測所の開所式の記事。急いで糸川先生にラブレターを書いた。僕の人生をかけて働きたいとか、偉そうなことを書いたかも。僕の人生の始まり」
高度経済成長期を迎えた1960年代。世界では、旧ソ連による人類初の有人宇宙飛行や、アポロ11号の月面着陸成功など、宇宙開発が加速しました。
こうした中、日本にもロケット発射場をつくる計画が持ち上がりました。その上で必要な条件が、地球の遠心力が大きい赤道により近く、軌道となる東側に障害物がないこと。
糸川博士が全国を探した中、この条件にあてはまったのが、内之浦でした。
「陸の孤島」工事を支えたのは地元の主婦
(元JAXA職員 中部博雄さん)「こんもりした山もあった。糸川先生が削れば発射場になると独断で決めた。ほんまかいなと思った」
かつて、交通の難所で、「陸の孤島」とまで言われることもあった内之浦。発射場をつくるには、山を削る大規模な工事が必要でした。
この工事を支えたのが、地元の主婦でつくる「婦人会」でした。作業員への差し入れだけでなく、スコップを手に工事にも参加しました。
(婦人会 長倉朝子さん・78)「こげなところにできるのかと。2人1組になって石や泥、砂をのせてまず道を作った」
難工事を経て、1963年に完成。町中が歓喜に沸きました。
打ち上げが失敗…苦しい時期を支えた婦人会
しかし、道のりは平坦ではありませんでした。日本初の人工衛星の打ち上げが失敗。待っていたのは、世間からバッシングでした。
(元JAXA職員 中部博雄さん)「『税金泥棒』『なにをやっているんだ』切羽詰まった雰囲気があった」
苦しい時期を支えたのも、婦人会でした。打ち上げのたびに千羽鶴を折り神社へお参りに行くなど、成功を祈り続けました。
(元JAXA職員 中部博雄さん)「弁当とかラーメンを作ってくれた。我が家に帰った気分でひとときを過ごせた。心の支え」
最初の失敗から、4年。5度目の挑戦で、打ち上げに成功。日本初の人工衛星は、支えてくれた地元への感謝を込め、「おおすみ」と名づけられました。
(婦人会 長倉朝子さん・78)「打ち上がったときは感激で、喜んで日の丸の旗を振った」
世界初の試み「世界の内之浦になった」
そして、平成に入り、内之浦を一躍有名にしたのが、小惑星探査機「はやぶさ」の打ち上げ成功です。
およそ3億キロ離れた小惑星から微粒子を採取し、7年後に地球に帰還。世界初の試みでした。
(元JAXA職員 中部博雄さん)「帰って来た、やった。さぁ飲むかと。忘れられないプロジェクト」
(当時・訪れた子ども)「焦げていてびっくり。すごいがんばった」
(婦人会 長倉朝子さん・78)「こんなに小さな町にそんなに人が来てと。町の旅館業も活気づいた。世界の内之浦になった」
地域と歩んできた歴史を未来へ…
「人生で最も大切なものは逆境とよき友である」。度重なる苦難を地域とともに乗り越えてきた観測所には、今は亡き、糸川博士の言葉が刻まれています。
しかし、開設から62年経った今…。
(元JAXA職員 中部博雄さん)「壊してる。さみしい、青春をおう歌した場所だから」
老朽化が進み、かつておおすみが打ち上げられた古い発射施設も取り壊しが進んでいます。
今や、ロケットの多くは種子島宇宙センターで打ち上げられるようになりました。1960年代には1万人ほどいた内之浦の人口も、今は2000人台に。町のにぎわいも失われつつあります。
15年前に定年退職した、中部さん。内之浦に、観測所の歴史や地域との絆を伝える資料館を作りたいと考えています。
(元JAXA職員 中部博雄さん)「失敗しないと世界初のことは出来ない。そういう失敗は宝物」
「後世の人がそれを見て頑張ろうと思えると思う。内之浦から打ちあがった世界一のロケットもあるし、世界一の発見もある。それらの故郷は内之浦から始まったということを伝えて、内之浦を元気にしたい」
地域と歩んできた歴史は、未来へ受け継がれていきます。