今週日曜日、9月22日早朝に汚職、職権乱用の罪に問われた薄煕来・元重慶市党書記にとうとう判決が言い渡される。大方の人たちは「薄煕来はとにかく無罪を主張して、控訴するだろう」と言っているが、ネットで薄煕来が先週家族に向けて書いたとされるメモが出回っているらしい。
香港の英字紙『サウスチャイナ・モーニングポスト』によると、そこで薄煕来は、周囲に「必ず控訴するだろう」と思わせるほど強気だった公判時の態度とはうって変わり、父の薄一波が文化大革命で失脚し、獄中生活を送ったことを引き合いに出して「ぼくの模範だ!」と述べている。さらに「父も母も逝ってしまった。彼らを辱めることはしない。彼らの栄誉を汚すことはしない。どんなに大きな苦しみも受け止める」という。
このメモが本物かどうかは確証はないらしい。だが、実のところこの判決に興味を示している人々はすでに薄煕来がどんな態度を取るのかよりも、この「世紀の裁判」で当局がどれくらいの温情を示すかに注目している。つまり、中国政府の圧倒的な存在感の前に、習近平のライバルと呼ばれた薄煕来は「話題の主役」ではなくなってしまった感がある。
8月末の公判の際、法廷審議が同時に公開された微博を目にしたときは、薄煕来は被告という立場上劣勢ながらもまだ存在感があった。しかし、ここ3週間あまりの間に「当局の強大さ」があまりにも膨れ上がってしまった。今では被告が薄煕来であることよりも、当局がここでどう出るか、そこから「次の一歩、さらにその先が決まる」と見ている。
そう、「当局の強大さ」はますます膨張している。
その一つは、前回のこのコラムでもお伝えしたように、ほぼ薄煕来公判と前後して始まった、ネットユーザー、特に中国産マイクロブログ「微博」で協力な発言力を持つ「大V」と呼ばれる人たちに対する締め付けが明らかな効果を見せている。微博の登録ユーザー数はすでに5億人を超えているが、そこでかつて、あるいは現在名を馳せた人たちがその発言や活動が原因と思われる拘束に遭っている事実は、「大V」どころか一般ユーザーも震え上がらせ、微博はすっかりかつての賑わいをなくしている。
さらに今週に入って起こった、微博の著名ユーザー「花総丟了金箍棒」(「如意棒失くした花親分」という意味)、略称「花総」の拘束はさらに、人々に衝撃を与えた。
「花総」は現実社会ではある著名民間ITインキュベーター会社の管理者の一人なのだそうだが、経済ウェブサイトで高級品やラグジュアリーな生活スタイルを紹介するコラムも書いている。彼が一般にそれなりに知られる著名ユーザーになったきっかけは昨年、交通事故の現場を視察に訪れた地方政府官吏がその賃金に見合わないほどの高級腕時計を身につけていることを微博で指摘したことだった。彼の指摘に刺激されてネットユーザーが連携してその背景をあぶり出した結果、この官吏は汚職の疑いで逮捕された(実際にこの官吏の手元からはなんと83個もの腕時計が押収されたらしい)。
今、中国はラグジュアリー製品ブームだ。かつてのバブル時代の日本のように、誰もが手にできるわけではないが世界のブランド品や高級品に熱い視線が注がれている。それに便乗してまるで身分の象徴のようにひけらかす者たちも続出し、そんな人物に対する批判や妬みも多い。この事件はその一人である官吏を引きずりおろしたのだ。
だから、今週初めの「花総、拘束!」という情報はIT業界、そしてメディア業界の関係者を中心に瞬く間に駆け巡った。特筆すべきは、そこで最初に情報プラットホームになったのは微博ではなく、中国では一般の方法ではアクセスがブロックされているツイッター、そして携帯電話上で知り合いとだけ情報交換ができる「微信(WeChat)」だった。明らかにこれまで微博が持っていた圧倒的な情報発信力への人々の信頼は、ここ数週間のうちに完全に失われてしまった。
その後この拘束劇は、なんともきな臭いことがわかって来た。「花総」と微博上で論争を起こし、炎上した「世界贅沢品協会」という背景不明の組織が関わっているらしいという。この炎上騒ぎの背景を取材、記事化した記者によると、事件はその後沈静化したが、今年に入ってから突然、北京の某地区の公安局名義で同協会に関するマイナス報道を取り締まる、という通達が出たというのだ。一つの「民間組織」に関する対応に公安が通告を出してまで乗り出すのは不自然すぎる、と、その記者はネットで発表した手記で語っている。
その後「花総」は保釈金を支払って釈放された。だが、この「花総」拘束をきっかけに、胡錦濤・温家宝時代に公に微博で奨励されてきた「世論監督」や「実名告発」への期待感もあっというまにすぼまった。加えて先週、最高法院(最高裁判所)と最高検察院の二つの最高司法機関が揃って、「今後、微博に書き込まれたデマが500回以上転送(ツイッターでいうリツイート)された場合、そのデマを書き込んだ者を刑事罰に問う」という法解釈を行った。これによって、一介の庶民(ジャーナリスト含む)が微博で官吏たちへの「疑問」すら下手に口にできないといったムードが漂っている。
この政権は中国をこのまま人々の口をふさぎ、毛沢東時代に引き戻してしまうのだろうか?
そんな不安の一方で、新しい改革の兆しも見える。というのも、胡錦濤時代に経済を担当し、習政権下で中国共産党内の腐敗をチェックする中央紀律検査委員会の主任に就任した王岐山の指揮のもと、すでに中央官庁と地方政府で約20人が党の紀律違反で失脚しているからだ。さらに7月には劉志軍元鉄道相に死刑(執行猶予付き)判決が下り、8月末にも胡錦濤時代のトップ9位だった周永康の汚職容疑の捜査が始まったといわれている。
特に周永康は胡錦濤時代には王よりも党内地位は高かった。また党指導部である中央政治局の常務委員経験者に及んだ捜査としては文化大革命以来40年ぶりという「大物ターゲット」だ。同時に周に連なるとされる石油業界関連の国有企業トップが次々と職を解かれ、取り調べを受けていることが明らかになっており、国の最重要業界と言われるエネルギー分野で胡・温時代よりもずっと踏み込んだ汚職摘発が行われていることを伺わせる。一方で周は薄煕来とも近かった人物とされ、これらの動きは政争の一貫とも見られているが、全国の公安システムのトップに君臨していた周の処遇に喝采を叫ぶ人が多い。
そしてこれら一連の党内汚職の摘発を王岐山という人物がイデオロギーを叫ぶでもなく、手柄を派手に喧伝するでもなく、黙々とその職務を果たしているふうなのが印象的でもあり、対照的である。
今週木曜日の19日に発売された週刊紙『南方週末』でも、そんな王岐山のやり手ぶりを取り上げている。それによると、党内の腐敗をチェックする中央紀律検査委員会は王岐山の下、ネットユーザーが微博で告発する地方官吏の情報を集めるグループを設立、実際にそうして集めた情報を元にエネルギー局長が失脚したし、つい最近も超大物の国有資産監督管理委員会の主任が取り調べを受けていることが明らかになっている。
また、地方政府を含む公務員たち(国有企業関係者含む)に対して公費利用を厳しく制限し、そのお陰で高額商品の売り上げも明らかに激減し、日本のお中元やお歳暮シーズンに近い、中秋節(9月19日)前の贈答品シーズンも過去に比べて売り上げは惨憺たるものだったようだ。
それにしても、この『南方週末』の記事はえらくこの王岐山個人を持ち上げている気がする。確かに就任後、公務員に対して「所有するすべての会員制カードを廃棄、あるいは上司に差し出す」などの具体的な施策を進めていることがあげられており、メディアにその成果を披瀝するでもなく黙々と汚職官吏を摘発する姿は、今の(あるいはこれまでの)中国汚職対策上では珍しく一歩踏み込んだものだ。
だが、この記事はこの王岐山に対する評価を、微博で元エネルギー局長を実名告発して注目された、経済誌『財経』の羅昌平副編集長やかつて王らと意見交換の場に招待されたという大学教授らの言葉で綴っている。いかに王が微博の情報に注目しているか、そして汚職取り締まりに向けて紀律検査委員会内部の新しい人材、そして担当配置が行われてきたか......。これは明らかに王岐山が進めている活動に関する記事なのだが、王岐山に直接取材した言葉は一切含まれていない。
不思議に思いながら、読みつづけて気がついた。ああ、これは王岐山の汚職取り締まり活動を評価する一方で、その支えになってきた微博、特に実名告発や社会の監督の場としての機能を再評価し、さらに微博を今震え上がらせている強権的な政府当局に対する「抗議」の表明ではないか。
これらすべての動きは習近平のトップ就任で始まった。官吏に対する取り締まりと庶民に対する取り締まりは、両者を震え上がらせ、官も民も習政権に従わせようとしているように見える。そしてすでにそれは間違いなく効果を表し始めている。
だが、このような恐怖感による治政に、民間の人々は大きな抵抗を感じている。このような恐怖感によって押さえつけられた社会がこのまま続いてよいわけがないと感じている。また政府が西洋諸国やその文化を敵視するようなイデオロギーを振り回すことに不安も持っている。西洋的価値観を取り入れれば、必ず災いを招くとまで言い切る文章すら出現しているのだ。
だが、一方でかつて鄧小平らが西洋的価値観を取り入れて推進した経済発展。そこには共産党のイデオロギーとは相容れないように言われた「グレーゾーン」も多い。そしてそこでは確かに汚職も蔓延した。そこに経済担当出身の王岐山が斬り込み、大なたを振るう。だが、その彼は一切イデオロギーを口にしない。さらには、汚職官吏を告発する庶民の声に耳を傾けている――。
恐怖心で人々をコントロールしようとする習近平新政権に対し、王岐山へのメディアや民間の評価は彼らの希望と期待を代弁しているのだろう。彼がいる限り鄧小平が引き込んだ西洋的価値観の「グレーゾーン」は継続できる。そしてそんな「グレーゾーン」自体が、実は今の庶民たちが生き残れる空間であることを、人々は知っているのだ。
香港の英字紙『サウスチャイナ・モーニングポスト』によると、そこで薄煕来は、周囲に「必ず控訴するだろう」と思わせるほど強気だった公判時の態度とはうって変わり、父の薄一波が文化大革命で失脚し、獄中生活を送ったことを引き合いに出して「ぼくの模範だ!」と述べている。さらに「父も母も逝ってしまった。彼らを辱めることはしない。彼らの栄誉を汚すことはしない。どんなに大きな苦しみも受け止める」という。
このメモが本物かどうかは確証はないらしい。だが、実のところこの判決に興味を示している人々はすでに薄煕来がどんな態度を取るのかよりも、この「世紀の裁判」で当局がどれくらいの温情を示すかに注目している。つまり、中国政府の圧倒的な存在感の前に、習近平のライバルと呼ばれた薄煕来は「話題の主役」ではなくなってしまった感がある。
8月末の公判の際、法廷審議が同時に公開された微博を目にしたときは、薄煕来は被告という立場上劣勢ながらもまだ存在感があった。しかし、ここ3週間あまりの間に「当局の強大さ」があまりにも膨れ上がってしまった。今では被告が薄煕来であることよりも、当局がここでどう出るか、そこから「次の一歩、さらにその先が決まる」と見ている。
そう、「当局の強大さ」はますます膨張している。
その一つは、前回のこのコラムでもお伝えしたように、ほぼ薄煕来公判と前後して始まった、ネットユーザー、特に中国産マイクロブログ「微博」で協力な発言力を持つ「大V」と呼ばれる人たちに対する締め付けが明らかな効果を見せている。微博の登録ユーザー数はすでに5億人を超えているが、そこでかつて、あるいは現在名を馳せた人たちがその発言や活動が原因と思われる拘束に遭っている事実は、「大V」どころか一般ユーザーも震え上がらせ、微博はすっかりかつての賑わいをなくしている。
さらに今週に入って起こった、微博の著名ユーザー「花総丟了金箍棒」(「如意棒失くした花親分」という意味)、略称「花総」の拘束はさらに、人々に衝撃を与えた。
「花総」は現実社会ではある著名民間ITインキュベーター会社の管理者の一人なのだそうだが、経済ウェブサイトで高級品やラグジュアリーな生活スタイルを紹介するコラムも書いている。彼が一般にそれなりに知られる著名ユーザーになったきっかけは昨年、交通事故の現場を視察に訪れた地方政府官吏がその賃金に見合わないほどの高級腕時計を身につけていることを微博で指摘したことだった。彼の指摘に刺激されてネットユーザーが連携してその背景をあぶり出した結果、この官吏は汚職の疑いで逮捕された(実際にこの官吏の手元からはなんと83個もの腕時計が押収されたらしい)。
今、中国はラグジュアリー製品ブームだ。かつてのバブル時代の日本のように、誰もが手にできるわけではないが世界のブランド品や高級品に熱い視線が注がれている。それに便乗してまるで身分の象徴のようにひけらかす者たちも続出し、そんな人物に対する批判や妬みも多い。この事件はその一人である官吏を引きずりおろしたのだ。
だから、今週初めの「花総、拘束!」という情報はIT業界、そしてメディア業界の関係者を中心に瞬く間に駆け巡った。特筆すべきは、そこで最初に情報プラットホームになったのは微博ではなく、中国では一般の方法ではアクセスがブロックされているツイッター、そして携帯電話上で知り合いとだけ情報交換ができる「微信(WeChat)」だった。明らかにこれまで微博が持っていた圧倒的な情報発信力への人々の信頼は、ここ数週間のうちに完全に失われてしまった。
その後この拘束劇は、なんともきな臭いことがわかって来た。「花総」と微博上で論争を起こし、炎上した「世界贅沢品協会」という背景不明の組織が関わっているらしいという。この炎上騒ぎの背景を取材、記事化した記者によると、事件はその後沈静化したが、今年に入ってから突然、北京の某地区の公安局名義で同協会に関するマイナス報道を取り締まる、という通達が出たというのだ。一つの「民間組織」に関する対応に公安が通告を出してまで乗り出すのは不自然すぎる、と、その記者はネットで発表した手記で語っている。
その後「花総」は保釈金を支払って釈放された。だが、この「花総」拘束をきっかけに、胡錦濤・温家宝時代に公に微博で奨励されてきた「世論監督」や「実名告発」への期待感もあっというまにすぼまった。加えて先週、最高法院(最高裁判所)と最高検察院の二つの最高司法機関が揃って、「今後、微博に書き込まれたデマが500回以上転送(ツイッターでいうリツイート)された場合、そのデマを書き込んだ者を刑事罰に問う」という法解釈を行った。これによって、一介の庶民(ジャーナリスト含む)が微博で官吏たちへの「疑問」すら下手に口にできないといったムードが漂っている。
この政権は中国をこのまま人々の口をふさぎ、毛沢東時代に引き戻してしまうのだろうか?
そんな不安の一方で、新しい改革の兆しも見える。というのも、胡錦濤時代に経済を担当し、習政権下で中国共産党内の腐敗をチェックする中央紀律検査委員会の主任に就任した王岐山の指揮のもと、すでに中央官庁と地方政府で約20人が党の紀律違反で失脚しているからだ。さらに7月には劉志軍元鉄道相に死刑(執行猶予付き)判決が下り、8月末にも胡錦濤時代のトップ9位だった周永康の汚職容疑の捜査が始まったといわれている。
特に周永康は胡錦濤時代には王よりも党内地位は高かった。また党指導部である中央政治局の常務委員経験者に及んだ捜査としては文化大革命以来40年ぶりという「大物ターゲット」だ。同時に周に連なるとされる石油業界関連の国有企業トップが次々と職を解かれ、取り調べを受けていることが明らかになっており、国の最重要業界と言われるエネルギー分野で胡・温時代よりもずっと踏み込んだ汚職摘発が行われていることを伺わせる。一方で周は薄煕来とも近かった人物とされ、これらの動きは政争の一貫とも見られているが、全国の公安システムのトップに君臨していた周の処遇に喝采を叫ぶ人が多い。
そしてこれら一連の党内汚職の摘発を王岐山という人物がイデオロギーを叫ぶでもなく、手柄を派手に喧伝するでもなく、黙々とその職務を果たしているふうなのが印象的でもあり、対照的である。
今週木曜日の19日に発売された週刊紙『南方週末』でも、そんな王岐山のやり手ぶりを取り上げている。それによると、党内の腐敗をチェックする中央紀律検査委員会は王岐山の下、ネットユーザーが微博で告発する地方官吏の情報を集めるグループを設立、実際にそうして集めた情報を元にエネルギー局長が失脚したし、つい最近も超大物の国有資産監督管理委員会の主任が取り調べを受けていることが明らかになっている。
また、地方政府を含む公務員たち(国有企業関係者含む)に対して公費利用を厳しく制限し、そのお陰で高額商品の売り上げも明らかに激減し、日本のお中元やお歳暮シーズンに近い、中秋節(9月19日)前の贈答品シーズンも過去に比べて売り上げは惨憺たるものだったようだ。
それにしても、この『南方週末』の記事はえらくこの王岐山個人を持ち上げている気がする。確かに就任後、公務員に対して「所有するすべての会員制カードを廃棄、あるいは上司に差し出す」などの具体的な施策を進めていることがあげられており、メディアにその成果を披瀝するでもなく黙々と汚職官吏を摘発する姿は、今の(あるいはこれまでの)中国汚職対策上では珍しく一歩踏み込んだものだ。
だが、この記事はこの王岐山に対する評価を、微博で元エネルギー局長を実名告発して注目された、経済誌『財経』の羅昌平副編集長やかつて王らと意見交換の場に招待されたという大学教授らの言葉で綴っている。いかに王が微博の情報に注目しているか、そして汚職取り締まりに向けて紀律検査委員会内部の新しい人材、そして担当配置が行われてきたか......。これは明らかに王岐山が進めている活動に関する記事なのだが、王岐山に直接取材した言葉は一切含まれていない。
不思議に思いながら、読みつづけて気がついた。ああ、これは王岐山の汚職取り締まり活動を評価する一方で、その支えになってきた微博、特に実名告発や社会の監督の場としての機能を再評価し、さらに微博を今震え上がらせている強権的な政府当局に対する「抗議」の表明ではないか。
これらすべての動きは習近平のトップ就任で始まった。官吏に対する取り締まりと庶民に対する取り締まりは、両者を震え上がらせ、官も民も習政権に従わせようとしているように見える。そしてすでにそれは間違いなく効果を表し始めている。
だが、このような恐怖感による治政に、民間の人々は大きな抵抗を感じている。このような恐怖感によって押さえつけられた社会がこのまま続いてよいわけがないと感じている。また政府が西洋諸国やその文化を敵視するようなイデオロギーを振り回すことに不安も持っている。西洋的価値観を取り入れれば、必ず災いを招くとまで言い切る文章すら出現しているのだ。
だが、一方でかつて鄧小平らが西洋的価値観を取り入れて推進した経済発展。そこには共産党のイデオロギーとは相容れないように言われた「グレーゾーン」も多い。そしてそこでは確かに汚職も蔓延した。そこに経済担当出身の王岐山が斬り込み、大なたを振るう。だが、その彼は一切イデオロギーを口にしない。さらには、汚職官吏を告発する庶民の声に耳を傾けている――。
恐怖心で人々をコントロールしようとする習近平新政権に対し、王岐山へのメディアや民間の評価は彼らの希望と期待を代弁しているのだろう。彼がいる限り鄧小平が引き込んだ西洋的価値観の「グレーゾーン」は継続できる。そしてそんな「グレーゾーン」自体が、実は今の庶民たちが生き残れる空間であることを、人々は知っているのだ。