日本人にとって、「愛国」は「中国」と並べて考えたくないキーワードのナンバー1だろう。日本人で「愛国」をたびたび口にする人でもそこに「中国」が並ぶとむっとするだろうし、「中国」という言葉をみても平気でも「愛国」は敬遠したい。たとえこの2つの言葉どっちも大好きという人がいたとしても、この2つとも苦手という日本人の方がきっと多いはずだ。
だが、中国人はどうだろう。たぶん、一般的な日本人が思い描くのは、「愛国」について尋ねられた中国人が狂喜乱舞、つばを飛ばしながらしゃべりまくるイメージではないか。
一般大衆という意味での中国人を想像するなら、わたしのイメージもそれに近い。わたし自身、中国人と「愛国」に関する話をしたことがないわけではない。もちろん常に相手をきちんと選んだうえでのことだった。だが、それでも結果的に「愛国とはなんぞや」という結論を見出す前に、相手が日中関係に横たわる深い溝にハマり込んで出られなくなって苦しみだす(そして逆上する)か、逆に政府のスローガンとそのキャンペーンに踊らされる一般民衆に対する激しい怒りの炎にあぶられてしまうか、あるいは両者ともにこれ以上話を突き詰めればきっと気まずく終わってしまうだろうと気付き、話題を変えてしまうか。
日本人、中国人、愛国。この関係は確かに非常に複雑だ。例えばわたしは普通のインタビューでも割りとざっくばらんに相手の考えていることを聞き出したいと考えているのだが、一般的に中国人はまったく日本と関係のない話題ですら話の矛先が自然に「日本に対しての思い」へと狭まっていく。日頃の日本に対する感情に関わらず、「日本人」を前にすると良くも悪くも身構えてしまう。中国人のそんなぎこちなさをたびたび目にしてきた。もし、我々の間の話題が「愛国」に迫ろうなら、当然結果は前述のパターンのどれかで終わる。
だから、10月1日の国慶節から始まった7日間の連休の間にツイッターの中国語タイムラインに「愛国」について語るつぶやきを目にした時、わたしは横目で「聞き」流していた。だが、連休が終わる前になって次々と「愛国」を罵るつぶやきが出現して彼らが何かに刺激されていることを知った。
一頭のブタが中央電視台のインタビューを受けて、「あなたはブタ小屋を愛していますか?」と尋ねられて、「もちろん愛していますよ」とブタが答えていた。テレビ局の記者はとても喜んでさっとカメラに向かい、「ブタですらブタ小屋を愛するということを知っているのです。なぜ国を愛さない人がいるのでしょうか? もしかして彼らはブタ以下なのでしょうか?」と視聴者に向かって言った。続いて記者はまたブタに「あなたはなぜブタ小屋を愛しているのですか、その理由を教えて下さい」と訊いた。ブタはこう答えた。「もしぼくがブタ小屋を愛さなければ、他のブタに死ぬほど罵られ、小屋から追い出されてしまいますからね。それじゃヒト以下じゃないですか」(@wuzuolai)
国慶節休みが終わった。人肉掃除機が次々と職場に戻ってくる。北京の空気の質が一挙に良くなった。これこそが愛国精神の最も具体的な表現さ。(@formatself)
......中国国内ではツイッターは一般的な方法ではアクセスできないため、そこに集まる人たちは日頃から政府が講じた手段に対抗意識を燃やしている。中国政府に対して批判的な声が集中しやすく、それをそのまま中国国民の声をそのまま反映したものと言い切ることはできない。だが、彼らがそこで規制や政府が醸し出す社会ムードを気にすることなく熱く語り合うような話題は実はまた巷のホットな事情を反映している。そこでは国産マイクロブログ「微博」で発すれば簡単に削除されてしまうような本音が飛び出すから、微博水面下でどんな思いが飛び交っているを知ることができる。
そんなツイッターで流れる「愛国」話題の中に、微博で1500万人のフォロワーを持つ人気ユーザー、任志強氏のつぶやきがコピーされて流れてきた。任氏は不動産開発会社、華遠集団のトップだ。父親が中国政府の高官を務めたためにこれまでずっと「官二代」(官僚子弟)「紅二代」(共産党子弟)だと思われていたが、微博で不動産業界や政策に対する批判を繰り返して庶民の間であっという間に人気者になった。その任氏がこうつぶやいたのだ。
9月28日、中央電視台がオフィスに取材に来た。ぼくが「どうせ取材しても流さないんだろ」と言うと、若い記者は「流します」と言った。質問:愛国ってなんですか? 答「政府の間違い全てを批判することでこの国で暮らす人民の生活をもっと良くし、もっと多くの権利や自由を享受できるように努力すること」質問:どうやってその愛情の深さを証明する? 答「批判が厳しいほど、愛情は深い。政府の職権乱用を放任することは逆に最も非愛国的な行為だ」でも、やっぱり放送されなかったね。
ここでやっと、国営放送の中央電視台が「愛国」をテーマに市民にインタビューして、国慶節休み中のさまざまな時間帯のニュース番組で繰り返し流し続けたらしい、と気がついた。調べてみると、昨年「あなたは幸せですか?」をテーマにした街頭インタビューを流したように、今年も同電視台は各地で「愛国って何?」について市民に問いかけたという。
それを聞いて「愛国インタビュー? 今さら何を言ってるんですか?」と思ったのはわたしだけではなかったのは、先のツイッターでのつぶやきを見ても明らかだろう。
国慶節に合わせて「幸福」、そして「愛国」なんて、こっ恥ずかしくなってしまうような言葉ばかり選ぶのは、逆に言えばこんな歯が浮くような、現実感がありそうでなさそうな言葉こそが、国慶節という建国記念日の華々しい日にテレビで語られるにふさわしいからかもしれない。ここでもし、「あなたは家を買いましたか?」「車は何に乗ってますか?」「海外旅行したいと思いますか?」などという質問を街頭の人に向けようものなら、出てくる答はあまりにも現実的な訴えが続出し、国慶節の「お祝いムード」は吹き飛んでしまうだろう。
まぁ、そんなふうに頭のなかでいろいろ思いながらネットの動画サイトでこの「愛国って何?」インタビュー集(中国語のみ)を観てみたのだが、意外におもしろかった。
もちろん、「自分たちは侵略され続けた。今は強くなった」と感情がたかぶって泣く女性、「国は娘や息子より大事。わたしは孤児院で育てられたんだもの」と笑う高齢の女性、「日本車を買う余裕はある。だが国産車を買った。それが愛国」と言う若い男性、そして「愛国といえば柳条溝事件。尖閣は中国のものだ」と答える初老の男性...まぁ、この辺は「お約束事」の範囲である。
でも、新鮮なのは「愛国って?」とマイクをつきつけられて、困った顔をしたり、恥ずかしげに顔を反らしたりした人たちの姿が映っていることだった。約2000人にインタビューしたそうだが、前述の任さんがつぶやいたようにその全員の回答が流れたわけではない。その中から「選ばれて」この人たちが放映されたのはなぜなのか。
たとえば、アメリカに移民して中華料理屋を営む夫婦。「祖国が豊かで強くなってほしい。皆が幸せになってほしい」というが、わざわざ祖国を離れて15年間も暮らす人に「愛国」を尋ねているのはなぜか。実は彼らは「愛国」ではなく、「国慶節の時にあなたは何を思いますか?」という質問に答えているだけなのだ。つまり中国にルーツを持って海外で(もしかしたら国籍まで取った上で)暮らす人間からお祝いの言葉を聞き出し、うまくそれを「愛国」にすり替えている。
イギリス暮らしの上海出身のおじいちゃんも「釣魚島? 釣魚島は中国のものだ!」と勢いよく語る。でも、マイクを突きつけた人物が何をどう尋ねたかはきれいにカットされている。
「わたしは国を愛してるわよ!」と答えた女性は、「公開の場で他の人に愛国だと主張しますか?」と尋ねられて、「そんな歯の浮くようなこと、言うわけないじゃない。恋愛だっていちいち『愛してるわ』なんて言わないでしょ」と切り返した。
そして、同じ質問をぶつけられた山東省の漁民の答はこうだった。「公開の場で言わなくても愛国は愛国だろ。なんでいちいち公開宣言する必要があるんだ。ぼくはアメリカに生まれたわけじゃない、中国で生まれたんだから中国人。中国人だから中国を愛する、経済を良くするために頑張ればそれでいい。主席がきちんとぼくらを導いてくれて、社会を良くして、団結するだけさ」
だが、「愛国って何?」がすんなりいかなかった場合にはインタビューは手段を切り替えている。「愛国って言葉に何を思いますか?」と聞かれた若い男性は、「以前は愛国って言うと、釣魚島(尖閣諸島)だの、日本車破壊だの、理性を失って日本製品ボイコットなんて言ってたけど、ぼくにとっての愛国ってもっと理性的に自分を高めること、それが国に対する最大の愛なんじゃないの?」と答えている。
ある中年の男性は「ぼくのような一般庶民はきちんと自分の仕事をこなすことで、無言で国に貢献しているんだと思う。どんな業種のどんな仕事でも。今は経済が発展して、人々の考えはさらに開放的、積極的になった。でも、どんな仕事をしていても、心は国にある、(愛国って)そういうことじゃなかな」と落ち着いた表情で語った。
旅行中の青年は「ほとんどの若い人はそんな話題には興味持ってないよ」と答え、「なぜ?」と食い下がられて、「だって今の世の中は功利主義だらけ。愛国なんてそれほど重要なことじゃない」と語り、「今はみんなの気持ちが変わっている最中で、帰属感を失っている。自分の行動を規範するルールもない。それを良いことだと思わないけれど、それが現実。国慶節だってぼくらにはただの連休7日間っていう意味しかないね」とクールだった。
面白かったのは、自転車に乗っていたところを呼び止められたらしいある大学生だ。「愛国ってなに?」と尋ねられてまず困った顔をし、「それはぼくに訊く問題じゃないな」。「じゃあ愛国っていうとどんな人、どんな言葉を思う?」と再度訊かれると、目をぎょろりとさせて「何にも思い浮かばない」と答え、最後に「愛国者って言えば?」という質問に「ミサイル」とだけ答えて去っていった。「愛国者」、つまりパトリオット。アメリカのミサイルである。
インタビュー特集のバージョンはいくつかあるらしいが、そのうちの一つの「愛国特集」はかなりはっきりと、「エコ・ネットデマ批判・礼儀やマナー→918(満州事件の発端、柳条湖事件)→釣魚島→日本製品ボイコット→非理性的なボイコットや暴力行為への批判→強く大きく豊かになった我が国」という流れで構成されていた。最初の「エコ、ネットデマ批判、礼儀やマナー」は今中国政府が国民に向けて行っているキャンペーンそのものだ。
こちらの想像どおりの「918」や尖閣(高齢層)と日本製品ボイコットを口にした人たちの後に、非理性的な行動を非難する若者の声が流れた。そして賑わうレストランでまさに鍋を囲んでいる人たちが次々と自国の今の豊かさを語る。中国では昔から食事を取る姿は「豊かさ、満腹(満足)感」の象徴だ。続いて中国外交部の洪磊報道官(つまり権威筋)が、「我が国は屈辱の歴史から抜け出し、世界舞台の中央に立った。東方に屹立する国の報道官を支えるのは我が国の強大さだ」と言って終わる。
これは、明らかに国民を「なだめる」ために作られている。昨年の「あなたは幸福ですか?」インタビューのように見るからに貧しそうな人たちの幸福感イメージを煽って終わるのではなく、昨年の反日デモで猛り狂った「愛国」という炎を国民をなじることなくなだめるという政府の意図が透けて見える。理性的なデモを訴える若者は昨年のデモの最中にもいた。だが、彼らはその後政府によって尋問され、拘束された人もいる。当時は「理性」など公開の場で説いてはいけなかったのに、今は国家放送局の中央電視台がどうどうと「理性」を庶民に語らせているのだ。
そうした中国政府の動きの一環として、安倍首相と習近平国家主席が握手したのは間違いないだろう。中国政府は口を滑らせた安倍首相の言葉の裏取りにやっきになる日本メディアにむっとしたらしいが、それでもゆっくりと、そしてやっと「あげた手を下ろし始め」ている。だが、政府が口を開けて語らない限り、それは公式の態度ではない。先を急いで有頂天になってぺらぺら調子に乗ってしゃべるやつは「軽いやつ」と見なされるのはどの世界でも同じだ。
「最初にゲンコツを振り上げ、強面で迫る」これは昔から中国政府の常套手段だ。無表情でその手の置所を探す中国側のこの無言の歩み寄りに、日本はどこまで重厚な態度を保てるのか。今は日本の外交姿勢も試されていると認識すべきだろう。
だが、中国人はどうだろう。たぶん、一般的な日本人が思い描くのは、「愛国」について尋ねられた中国人が狂喜乱舞、つばを飛ばしながらしゃべりまくるイメージではないか。
一般大衆という意味での中国人を想像するなら、わたしのイメージもそれに近い。わたし自身、中国人と「愛国」に関する話をしたことがないわけではない。もちろん常に相手をきちんと選んだうえでのことだった。だが、それでも結果的に「愛国とはなんぞや」という結論を見出す前に、相手が日中関係に横たわる深い溝にハマり込んで出られなくなって苦しみだす(そして逆上する)か、逆に政府のスローガンとそのキャンペーンに踊らされる一般民衆に対する激しい怒りの炎にあぶられてしまうか、あるいは両者ともにこれ以上話を突き詰めればきっと気まずく終わってしまうだろうと気付き、話題を変えてしまうか。
日本人、中国人、愛国。この関係は確かに非常に複雑だ。例えばわたしは普通のインタビューでも割りとざっくばらんに相手の考えていることを聞き出したいと考えているのだが、一般的に中国人はまったく日本と関係のない話題ですら話の矛先が自然に「日本に対しての思い」へと狭まっていく。日頃の日本に対する感情に関わらず、「日本人」を前にすると良くも悪くも身構えてしまう。中国人のそんなぎこちなさをたびたび目にしてきた。もし、我々の間の話題が「愛国」に迫ろうなら、当然結果は前述のパターンのどれかで終わる。
だから、10月1日の国慶節から始まった7日間の連休の間にツイッターの中国語タイムラインに「愛国」について語るつぶやきを目にした時、わたしは横目で「聞き」流していた。だが、連休が終わる前になって次々と「愛国」を罵るつぶやきが出現して彼らが何かに刺激されていることを知った。
一頭のブタが中央電視台のインタビューを受けて、「あなたはブタ小屋を愛していますか?」と尋ねられて、「もちろん愛していますよ」とブタが答えていた。テレビ局の記者はとても喜んでさっとカメラに向かい、「ブタですらブタ小屋を愛するということを知っているのです。なぜ国を愛さない人がいるのでしょうか? もしかして彼らはブタ以下なのでしょうか?」と視聴者に向かって言った。続いて記者はまたブタに「あなたはなぜブタ小屋を愛しているのですか、その理由を教えて下さい」と訊いた。ブタはこう答えた。「もしぼくがブタ小屋を愛さなければ、他のブタに死ぬほど罵られ、小屋から追い出されてしまいますからね。それじゃヒト以下じゃないですか」(@wuzuolai)
国慶節休みが終わった。人肉掃除機が次々と職場に戻ってくる。北京の空気の質が一挙に良くなった。これこそが愛国精神の最も具体的な表現さ。(@formatself)
......中国国内ではツイッターは一般的な方法ではアクセスできないため、そこに集まる人たちは日頃から政府が講じた手段に対抗意識を燃やしている。中国政府に対して批判的な声が集中しやすく、それをそのまま中国国民の声をそのまま反映したものと言い切ることはできない。だが、彼らがそこで規制や政府が醸し出す社会ムードを気にすることなく熱く語り合うような話題は実はまた巷のホットな事情を反映している。そこでは国産マイクロブログ「微博」で発すれば簡単に削除されてしまうような本音が飛び出すから、微博水面下でどんな思いが飛び交っているを知ることができる。
そんなツイッターで流れる「愛国」話題の中に、微博で1500万人のフォロワーを持つ人気ユーザー、任志強氏のつぶやきがコピーされて流れてきた。任氏は不動産開発会社、華遠集団のトップだ。父親が中国政府の高官を務めたためにこれまでずっと「官二代」(官僚子弟)「紅二代」(共産党子弟)だと思われていたが、微博で不動産業界や政策に対する批判を繰り返して庶民の間であっという間に人気者になった。その任氏がこうつぶやいたのだ。
9月28日、中央電視台がオフィスに取材に来た。ぼくが「どうせ取材しても流さないんだろ」と言うと、若い記者は「流します」と言った。質問:愛国ってなんですか? 答「政府の間違い全てを批判することでこの国で暮らす人民の生活をもっと良くし、もっと多くの権利や自由を享受できるように努力すること」質問:どうやってその愛情の深さを証明する? 答「批判が厳しいほど、愛情は深い。政府の職権乱用を放任することは逆に最も非愛国的な行為だ」でも、やっぱり放送されなかったね。
ここでやっと、国営放送の中央電視台が「愛国」をテーマに市民にインタビューして、国慶節休み中のさまざまな時間帯のニュース番組で繰り返し流し続けたらしい、と気がついた。調べてみると、昨年「あなたは幸せですか?」をテーマにした街頭インタビューを流したように、今年も同電視台は各地で「愛国って何?」について市民に問いかけたという。
それを聞いて「愛国インタビュー? 今さら何を言ってるんですか?」と思ったのはわたしだけではなかったのは、先のツイッターでのつぶやきを見ても明らかだろう。
国慶節に合わせて「幸福」、そして「愛国」なんて、こっ恥ずかしくなってしまうような言葉ばかり選ぶのは、逆に言えばこんな歯が浮くような、現実感がありそうでなさそうな言葉こそが、国慶節という建国記念日の華々しい日にテレビで語られるにふさわしいからかもしれない。ここでもし、「あなたは家を買いましたか?」「車は何に乗ってますか?」「海外旅行したいと思いますか?」などという質問を街頭の人に向けようものなら、出てくる答はあまりにも現実的な訴えが続出し、国慶節の「お祝いムード」は吹き飛んでしまうだろう。
まぁ、そんなふうに頭のなかでいろいろ思いながらネットの動画サイトでこの「愛国って何?」インタビュー集(中国語のみ)を観てみたのだが、意外におもしろかった。
もちろん、「自分たちは侵略され続けた。今は強くなった」と感情がたかぶって泣く女性、「国は娘や息子より大事。わたしは孤児院で育てられたんだもの」と笑う高齢の女性、「日本車を買う余裕はある。だが国産車を買った。それが愛国」と言う若い男性、そして「愛国といえば柳条溝事件。尖閣は中国のものだ」と答える初老の男性...まぁ、この辺は「お約束事」の範囲である。
でも、新鮮なのは「愛国って?」とマイクをつきつけられて、困った顔をしたり、恥ずかしげに顔を反らしたりした人たちの姿が映っていることだった。約2000人にインタビューしたそうだが、前述の任さんがつぶやいたようにその全員の回答が流れたわけではない。その中から「選ばれて」この人たちが放映されたのはなぜなのか。
たとえば、アメリカに移民して中華料理屋を営む夫婦。「祖国が豊かで強くなってほしい。皆が幸せになってほしい」というが、わざわざ祖国を離れて15年間も暮らす人に「愛国」を尋ねているのはなぜか。実は彼らは「愛国」ではなく、「国慶節の時にあなたは何を思いますか?」という質問に答えているだけなのだ。つまり中国にルーツを持って海外で(もしかしたら国籍まで取った上で)暮らす人間からお祝いの言葉を聞き出し、うまくそれを「愛国」にすり替えている。
イギリス暮らしの上海出身のおじいちゃんも「釣魚島? 釣魚島は中国のものだ!」と勢いよく語る。でも、マイクを突きつけた人物が何をどう尋ねたかはきれいにカットされている。
「わたしは国を愛してるわよ!」と答えた女性は、「公開の場で他の人に愛国だと主張しますか?」と尋ねられて、「そんな歯の浮くようなこと、言うわけないじゃない。恋愛だっていちいち『愛してるわ』なんて言わないでしょ」と切り返した。
そして、同じ質問をぶつけられた山東省の漁民の答はこうだった。「公開の場で言わなくても愛国は愛国だろ。なんでいちいち公開宣言する必要があるんだ。ぼくはアメリカに生まれたわけじゃない、中国で生まれたんだから中国人。中国人だから中国を愛する、経済を良くするために頑張ればそれでいい。主席がきちんとぼくらを導いてくれて、社会を良くして、団結するだけさ」
だが、「愛国って何?」がすんなりいかなかった場合にはインタビューは手段を切り替えている。「愛国って言葉に何を思いますか?」と聞かれた若い男性は、「以前は愛国って言うと、釣魚島(尖閣諸島)だの、日本車破壊だの、理性を失って日本製品ボイコットなんて言ってたけど、ぼくにとっての愛国ってもっと理性的に自分を高めること、それが国に対する最大の愛なんじゃないの?」と答えている。
ある中年の男性は「ぼくのような一般庶民はきちんと自分の仕事をこなすことで、無言で国に貢献しているんだと思う。どんな業種のどんな仕事でも。今は経済が発展して、人々の考えはさらに開放的、積極的になった。でも、どんな仕事をしていても、心は国にある、(愛国って)そういうことじゃなかな」と落ち着いた表情で語った。
旅行中の青年は「ほとんどの若い人はそんな話題には興味持ってないよ」と答え、「なぜ?」と食い下がられて、「だって今の世の中は功利主義だらけ。愛国なんてそれほど重要なことじゃない」と語り、「今はみんなの気持ちが変わっている最中で、帰属感を失っている。自分の行動を規範するルールもない。それを良いことだと思わないけれど、それが現実。国慶節だってぼくらにはただの連休7日間っていう意味しかないね」とクールだった。
面白かったのは、自転車に乗っていたところを呼び止められたらしいある大学生だ。「愛国ってなに?」と尋ねられてまず困った顔をし、「それはぼくに訊く問題じゃないな」。「じゃあ愛国っていうとどんな人、どんな言葉を思う?」と再度訊かれると、目をぎょろりとさせて「何にも思い浮かばない」と答え、最後に「愛国者って言えば?」という質問に「ミサイル」とだけ答えて去っていった。「愛国者」、つまりパトリオット。アメリカのミサイルである。
インタビュー特集のバージョンはいくつかあるらしいが、そのうちの一つの「愛国特集」はかなりはっきりと、「エコ・ネットデマ批判・礼儀やマナー→918(満州事件の発端、柳条湖事件)→釣魚島→日本製品ボイコット→非理性的なボイコットや暴力行為への批判→強く大きく豊かになった我が国」という流れで構成されていた。最初の「エコ、ネットデマ批判、礼儀やマナー」は今中国政府が国民に向けて行っているキャンペーンそのものだ。
こちらの想像どおりの「918」や尖閣(高齢層)と日本製品ボイコットを口にした人たちの後に、非理性的な行動を非難する若者の声が流れた。そして賑わうレストランでまさに鍋を囲んでいる人たちが次々と自国の今の豊かさを語る。中国では昔から食事を取る姿は「豊かさ、満腹(満足)感」の象徴だ。続いて中国外交部の洪磊報道官(つまり権威筋)が、「我が国は屈辱の歴史から抜け出し、世界舞台の中央に立った。東方に屹立する国の報道官を支えるのは我が国の強大さだ」と言って終わる。
これは、明らかに国民を「なだめる」ために作られている。昨年の「あなたは幸福ですか?」インタビューのように見るからに貧しそうな人たちの幸福感イメージを煽って終わるのではなく、昨年の反日デモで猛り狂った「愛国」という炎を国民をなじることなくなだめるという政府の意図が透けて見える。理性的なデモを訴える若者は昨年のデモの最中にもいた。だが、彼らはその後政府によって尋問され、拘束された人もいる。当時は「理性」など公開の場で説いてはいけなかったのに、今は国家放送局の中央電視台がどうどうと「理性」を庶民に語らせているのだ。
そうした中国政府の動きの一環として、安倍首相と習近平国家主席が握手したのは間違いないだろう。中国政府は口を滑らせた安倍首相の言葉の裏取りにやっきになる日本メディアにむっとしたらしいが、それでもゆっくりと、そしてやっと「あげた手を下ろし始め」ている。だが、政府が口を開けて語らない限り、それは公式の態度ではない。先を急いで有頂天になってぺらぺら調子に乗ってしゃべるやつは「軽いやつ」と見なされるのはどの世界でも同じだ。
「最初にゲンコツを振り上げ、強面で迫る」これは昔から中国政府の常套手段だ。無表情でその手の置所を探す中国側のこの無言の歩み寄りに、日本はどこまで重厚な態度を保てるのか。今は日本の外交姿勢も試されていると認識すべきだろう。