アメリカ議会の混乱はまだ続いており、連邦政府の一部の業務が止まったまま半月が過ぎた。15日現在でもまだ民主党と共和党の妥協は成立せず、17日までに債務上限が引き上げられないと、政府が債務不履行に陥るおそれがある。アメリカ議会も「決められない政治」になってしまったことは、民主政治の病の深さを感じさせる。
この騒動をみて日本人が奇異に感じるのは、「決められる政治」のシンボルのように思われている大統領が無力なことだろう。日本の政治改革で、よく首相公選とか「大統領的首相」にすべきだなどと言われるが、本家のオバマ大統領は何もできず、議会の中での駆け引きで「チキンゲーム」が続いている。
実は、アメリカの大統領の権限はそれほど強くないのだ。大統領は最高司令官だが、宣戦布告の権限は議会にしかない。日本の法律の9割は政府提出法案だが、ホワイトハウスには法律の提案権さえない。予算も議会が提出し、大統領は予算教書で方針を提案するだけだ。閣僚も上院が承認しなければ任命できない。おまけに大統領の与党が議会で少数派になる「ねじれ」もよくあり、党議拘束がないので「造反」も珍しくない。
このように意思決定が複雑で非効率的なのは、もともとバラバラの国(州)を集めてつくった建国の経緯による。上院議員は州議会が選出し、大統領も国民が直接選べないで「選挙人」を選ぶ。連邦派と各州の妥協の結果、各州のトップは「統治者」(governor)なのに、連邦政府の元首は「座長」(president)という弱い名称になった。
合衆国憲法がこのように「弱い民主政治」になったのは、建国の父の制度設計による。アメリカ独立革命(1776年)のあと起こったフランス革命では、主権在民の思想のもとに王制が倒されて共和制になったが、恐怖政治と流血の惨事のあと、わずか5年でナポレオンの独裁政治になり、ナポレオン戦争を含めて490万人の死者を出した。
こうした状況をみたエドマンド・バークなどのイギリスの政治家は、国民が法を超える「主権」をもつという思想は危険であり、主権がナポレオンのような独裁者に譲渡されると容易に独裁政治に転じる、と民主政治のリスクを警告した。その結果、合衆国憲法には「国民主権」も「天賦人権」も規定されていない。国家の究極の決定は、非人格的な法の支配によって行なわれるからだ。
だからアメリカで最高の権威をもつのは、司法である。よくも悪くもアメリカではすべてが法律で決まり、紛争は裁判で決着がつけられる。2000年の大統領選挙も、最終的には連邦最高裁が大統領を選んだ。今回も17日のデッドラインを突破しても、大統領権限で債務の上限を引き上げる最後の手段があるが、この場合も連邦最高裁の憲法判断が必要になるそうだ。
日本の直面している問題は、これとは異質だ。本来は多数党の党首が首相になる議院内閣制のほうが大統領制のような「二元代表制」より権力が首相に集中して指導力が発揮しやすい。衆参両院のねじれも、日本だけの現象ではない。しかし日本では、アメリカとは逆に党派的対立が国会で表面化せず、国会対策委員長会談などの「根回し」で解決される。
ここでは全員一致が原則なので、野党が強く反対する法案は後回しにされ、会期切れで継続審議になる。これは多数決で押し切る議会政治とは異なるルールで、村落共同体の伝統によるものだろう。その結果、国民がいやがる歳出削減は果てしなく先送りされ、誰もが好む金融緩和や景気対策が繰り返され、政府債務が膨張する。
各国の経済政策の行き詰まりの背景には、こうした民主政治の欠陥がある。特に日本の政府債務が重症なのは、過剰な民主政治が原因だ。安倍首相も日銀バッシングには熱心だったが、その効果がないとわかると昔のバラマキ財政に回帰してしまった。このままではアメリカと同じ財政破綻に、日本はゆっくり確実に近づいてゆく。
チャーチルの有名な「民主政治は最悪の政治形態である――これまで試みられた他の形態を除いては」という言葉の前半は正しいが、後半はどうかわからない。近代的な民主政治が行なわれているのは、たかだかここ300年ぐらいの西洋圏だけで、すべての国がすべての政治形態を試みたわけではないからだ。それぞれの国の特殊性に応じた、統治機構の再設計が必要だろう。
この騒動をみて日本人が奇異に感じるのは、「決められる政治」のシンボルのように思われている大統領が無力なことだろう。日本の政治改革で、よく首相公選とか「大統領的首相」にすべきだなどと言われるが、本家のオバマ大統領は何もできず、議会の中での駆け引きで「チキンゲーム」が続いている。
実は、アメリカの大統領の権限はそれほど強くないのだ。大統領は最高司令官だが、宣戦布告の権限は議会にしかない。日本の法律の9割は政府提出法案だが、ホワイトハウスには法律の提案権さえない。予算も議会が提出し、大統領は予算教書で方針を提案するだけだ。閣僚も上院が承認しなければ任命できない。おまけに大統領の与党が議会で少数派になる「ねじれ」もよくあり、党議拘束がないので「造反」も珍しくない。
このように意思決定が複雑で非効率的なのは、もともとバラバラの国(州)を集めてつくった建国の経緯による。上院議員は州議会が選出し、大統領も国民が直接選べないで「選挙人」を選ぶ。連邦派と各州の妥協の結果、各州のトップは「統治者」(governor)なのに、連邦政府の元首は「座長」(president)という弱い名称になった。
合衆国憲法がこのように「弱い民主政治」になったのは、建国の父の制度設計による。アメリカ独立革命(1776年)のあと起こったフランス革命では、主権在民の思想のもとに王制が倒されて共和制になったが、恐怖政治と流血の惨事のあと、わずか5年でナポレオンの独裁政治になり、ナポレオン戦争を含めて490万人の死者を出した。
こうした状況をみたエドマンド・バークなどのイギリスの政治家は、国民が法を超える「主権」をもつという思想は危険であり、主権がナポレオンのような独裁者に譲渡されると容易に独裁政治に転じる、と民主政治のリスクを警告した。その結果、合衆国憲法には「国民主権」も「天賦人権」も規定されていない。国家の究極の決定は、非人格的な法の支配によって行なわれるからだ。
だからアメリカで最高の権威をもつのは、司法である。よくも悪くもアメリカではすべてが法律で決まり、紛争は裁判で決着がつけられる。2000年の大統領選挙も、最終的には連邦最高裁が大統領を選んだ。今回も17日のデッドラインを突破しても、大統領権限で債務の上限を引き上げる最後の手段があるが、この場合も連邦最高裁の憲法判断が必要になるそうだ。
日本の直面している問題は、これとは異質だ。本来は多数党の党首が首相になる議院内閣制のほうが大統領制のような「二元代表制」より権力が首相に集中して指導力が発揮しやすい。衆参両院のねじれも、日本だけの現象ではない。しかし日本では、アメリカとは逆に党派的対立が国会で表面化せず、国会対策委員長会談などの「根回し」で解決される。
ここでは全員一致が原則なので、野党が強く反対する法案は後回しにされ、会期切れで継続審議になる。これは多数決で押し切る議会政治とは異なるルールで、村落共同体の伝統によるものだろう。その結果、国民がいやがる歳出削減は果てしなく先送りされ、誰もが好む金融緩和や景気対策が繰り返され、政府債務が膨張する。
各国の経済政策の行き詰まりの背景には、こうした民主政治の欠陥がある。特に日本の政府債務が重症なのは、過剰な民主政治が原因だ。安倍首相も日銀バッシングには熱心だったが、その効果がないとわかると昔のバラマキ財政に回帰してしまった。このままではアメリカと同じ財政破綻に、日本はゆっくり確実に近づいてゆく。
チャーチルの有名な「民主政治は最悪の政治形態である――これまで試みられた他の形態を除いては」という言葉の前半は正しいが、後半はどうかわからない。近代的な民主政治が行なわれているのは、たかだかここ300年ぐらいの西洋圏だけで、すべての国がすべての政治形態を試みたわけではないからだ。それぞれの国の特殊性に応じた、統治機構の再設計が必要だろう。