ポール・マッカートニーの11年ぶり来日公演をきっかけに、再びザ・ビートルズとその音楽への関心が高まっているが、彼らを影で支えた秘書のフリーダ・ケリーが50年間の沈黙を破って秘話を語ったドキュメンタリー映画『愛しのフリーダ』が、12月7日から日本公開される。
リバプールのキャバーン・クラブに通う1人のビートルズファンに過ぎなかった17歳のフリーダは、マネージャーのブライアン・エプスタインに見いだされてバンドの秘書兼ファンクラブ責任者に。以後11年間、「世界最高のバンド」を間近で見つめながら、彼女は70年の解散後、すべてを封印して喧騒とは無縁の静かな人生を歩んできた。なぜ50年経ってその封印を解いたのか。メンバーの素顔とビートルズの真実とは。来日した本人に聞いた。
──50年経った今、ビートルズについて改めて語ろうと思ったきっかけは?
(2011年3月に)ニュージャージー州で開かれたビートルズフェスティバルに招かれたのがきっかけでした。ずっと長い間(ビートルズとは)距離を置いていて、ようやく決心して参加したわけだけど、その時のファンから「何かやるべき」って言われて。私はまだ懐疑的だったのだけど、孫が生まれて、(母親である)娘から「彼(孫)のために語り残すべき」と言われたことが決め手になりました。
──映画に出ると決めた時、ポールとリンゴに相談は?
いいえ。なぜなら、自分自身が(当時)何を語ったかは、自分が一番良く知っているので。
──映画の最後に「サプライズ」がありますね。
ええ! でも私からは何もアプローチはしなかったんですよ。アップルが今回、ビートルズの曲の使用を認めてくれたことが、何よりの理解の表れでしょう。
──以前、ポールはローリングストーン誌のインタビューで「今でも頭の中でジョンに作曲の相談をするんだ」と答えていました。ただの友情、というだけでは語れそうにない2人の関係は、近くで見ていたあなたの眼にどう映りましたか?
曲を作っている時以外しか見てないですが、2人の関係は決して危機的な状況に陥ることはありませんでした。何があっても必ず最後は笑って終わる、というような。
──非常に対照的な2人ですね。ポールは明るくて外交的、ジョンは内省的でストレート。
その通り。ポールはメディアとの付き合いもうまかったのに対して、ジョンは実直過ぎて、発言を叩かれてしまうことがよくありました。ただ2人はそんなに違うことを言っていたわけではないですよ。
結局は個性の問題なのだと思いますが、ポールが激怒している様子、というのを見たことがありません。ただジョンはよく怒っていましたよ。ジョージもね。
──映画の中で、「リンゴに枕カバーを使ってもらって送り返してほしい」というファンの要望に応えるエピソードが紹介されていますね。
あれはたまたま(撮影のときに)思い出しただけで、ほかにもファンのためにいろんなことをやりましたよ! 世界中のたくさんのファンがたくさんのプレゼントを送ってきました。当時、日本のファンはメンバーに日本人形を送ってくれました。
──それにしても、当時のファンクラブはそんなことまで対応していたのか、と驚きました。
やらない、ということは考えられませんでした。だって、できる立場にいたから。私自身もビートルズファンでしたし、そうしてもらうことがファンにとって一番うれしい、ということが分かっていましたから。
──初めてビートルズを見た時、他のバンドとどう違っていたのでしょう?
ステージでのたたずまいやレザーづくめのそのファッション、彼らの語るユーモア......他のバンドとはすべてが違っていました。リバプールには当時、(リンゴがもともと所属していた)ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズやザ・ビッグ・スリ―といったバンドがありましたが、彼らが持っていないものをビートルズは明らかに持っていましたね。
つまらない仕事はなかった、と言うフリーダ・ケリ― © Yoshihiro Nagaoka.
──彼らの作品の中で一番好きなアルバムは?
(苦笑)。『プリーズ・プリーズ・ミー』、なぜなら最初の作品だから。でも『リボルバー』も『ビートルズ・フォー・セール』も、それに『サージェント・ペパー』も......。全部挙げちゃう(笑)。
──ビートルズと仕事をした10年あまりの時間は長かったですか、短かったですか?
(しばらく考えて)短かった。10年はとても短い時間でした。10年が20年に感じてしまうような、つまらない仕事では決してなかったから。(朝から働いて)気が付いたらもう午後3時、ということがしょっちゅうでした。とにかく忙しくて、とにかくやることが多かった。「光陰矢のごとし」よ(笑)。
──4人の誰かと結婚するとしたら?
誰かと結婚して、また次に違う人と結婚して......と、「バツ4」になるでしょうね(笑)
──順番は?
(笑)うーん、年齢の順番かしら。まずリンゴ、次にジョン、そしてポール......最後はベイビー(ジョージ)。
──メンバーの家族ともとても仲がよかったようですが。
仕事でオフィスとメンバーの家を行き来するうちに、彼らにとっての私が、また私にとっても彼らが自然とかけがえのない友人になりました。特にリンゴの家族とは今でも毎週日曜に会うほど。マッカートニー家とも付き合いが続いています。
あの当時、私のようにビートルズの家族と親しくなった人はいなかったんですが、それは私の立場が関係しているように思います。契約書関係の仕事をしていたことで、彼らの仕事が今後どうなるか、彼らがいま何を考えているか、という家族が知りたい事を知っていたことが1つの理由ではないでしょうか。
──お話を聞くほど、ビートルズは僕らと変わらない普通の人たちだった、と実感します。
もちろんそう。まだ若い17歳の娘だったことで、彼らが私を守ってくれたように今では感じます。
──映画を見ていて、(マネージャーの)ブライアン・エプスタインはとても厳しい人だった、という印象を受けました。
ええ、とても厳しい人でした。彼はオフィスでは特に厳しく、ミスを許さないところがありました。ミスを繰り返すなんてとんでもない、という感じ。でも、ある時2人とも仕事が夜遅くまで終わらなかった時、リバプールの古いレストランに食事に連れて行ってくれた。
ただ、仕事の時はあくまで「ボス」。絶対に「エピー」という愛称で面と向かって呼ぶなんて考えられなかった。あくまで「ミスター・エプスタイン」あるいは「ミスター・ブライアン」。
──ただ彼がいたからこそビートルズが成功したのでは?
もしブライアン・エプスタインがいなくても、ビートルズは一定の成功は収めたと思うわ。これほどの成功だったかどうかは別にして。よく彼を「5人目のビートルズ」と呼ぶ人がいますが、私はそうは思いません。むしろ、(ビートルズのロードマネージャーだった)ニール・アスピノールの方が「5人目のビートルズ」でしょう。メンバーが一番信頼していた人だから。
私は「5人目のビートルズ」とか「6人目のビートルズ」という言い方は嫌い。彼らがいなくても、ビートルズはある程度の成功はしたはずです。
彼らには単なる才能ではない、何かがあったの。それは見ればわかる。生のビートルズを見れば、きっと誰でも分かるはずです。
長岡義博(本誌記者)
リバプールのキャバーン・クラブに通う1人のビートルズファンに過ぎなかった17歳のフリーダは、マネージャーのブライアン・エプスタインに見いだされてバンドの秘書兼ファンクラブ責任者に。以後11年間、「世界最高のバンド」を間近で見つめながら、彼女は70年の解散後、すべてを封印して喧騒とは無縁の静かな人生を歩んできた。なぜ50年経ってその封印を解いたのか。メンバーの素顔とビートルズの真実とは。来日した本人に聞いた。
──50年経った今、ビートルズについて改めて語ろうと思ったきっかけは?
(2011年3月に)ニュージャージー州で開かれたビートルズフェスティバルに招かれたのがきっかけでした。ずっと長い間(ビートルズとは)距離を置いていて、ようやく決心して参加したわけだけど、その時のファンから「何かやるべき」って言われて。私はまだ懐疑的だったのだけど、孫が生まれて、(母親である)娘から「彼(孫)のために語り残すべき」と言われたことが決め手になりました。
──映画に出ると決めた時、ポールとリンゴに相談は?
いいえ。なぜなら、自分自身が(当時)何を語ったかは、自分が一番良く知っているので。
──映画の最後に「サプライズ」がありますね。
ええ! でも私からは何もアプローチはしなかったんですよ。アップルが今回、ビートルズの曲の使用を認めてくれたことが、何よりの理解の表れでしょう。
──以前、ポールはローリングストーン誌のインタビューで「今でも頭の中でジョンに作曲の相談をするんだ」と答えていました。ただの友情、というだけでは語れそうにない2人の関係は、近くで見ていたあなたの眼にどう映りましたか?
曲を作っている時以外しか見てないですが、2人の関係は決して危機的な状況に陥ることはありませんでした。何があっても必ず最後は笑って終わる、というような。
──非常に対照的な2人ですね。ポールは明るくて外交的、ジョンは内省的でストレート。
その通り。ポールはメディアとの付き合いもうまかったのに対して、ジョンは実直過ぎて、発言を叩かれてしまうことがよくありました。ただ2人はそんなに違うことを言っていたわけではないですよ。
結局は個性の問題なのだと思いますが、ポールが激怒している様子、というのを見たことがありません。ただジョンはよく怒っていましたよ。ジョージもね。
──映画の中で、「リンゴに枕カバーを使ってもらって送り返してほしい」というファンの要望に応えるエピソードが紹介されていますね。
あれはたまたま(撮影のときに)思い出しただけで、ほかにもファンのためにいろんなことをやりましたよ! 世界中のたくさんのファンがたくさんのプレゼントを送ってきました。当時、日本のファンはメンバーに日本人形を送ってくれました。
──それにしても、当時のファンクラブはそんなことまで対応していたのか、と驚きました。
やらない、ということは考えられませんでした。だって、できる立場にいたから。私自身もビートルズファンでしたし、そうしてもらうことがファンにとって一番うれしい、ということが分かっていましたから。
──初めてビートルズを見た時、他のバンドとどう違っていたのでしょう?
ステージでのたたずまいやレザーづくめのそのファッション、彼らの語るユーモア......他のバンドとはすべてが違っていました。リバプールには当時、(リンゴがもともと所属していた)ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズやザ・ビッグ・スリ―といったバンドがありましたが、彼らが持っていないものをビートルズは明らかに持っていましたね。
つまらない仕事はなかった、と言うフリーダ・ケリ― © Yoshihiro Nagaoka.
──彼らの作品の中で一番好きなアルバムは?
(苦笑)。『プリーズ・プリーズ・ミー』、なぜなら最初の作品だから。でも『リボルバー』も『ビートルズ・フォー・セール』も、それに『サージェント・ペパー』も......。全部挙げちゃう(笑)。
──ビートルズと仕事をした10年あまりの時間は長かったですか、短かったですか?
(しばらく考えて)短かった。10年はとても短い時間でした。10年が20年に感じてしまうような、つまらない仕事では決してなかったから。(朝から働いて)気が付いたらもう午後3時、ということがしょっちゅうでした。とにかく忙しくて、とにかくやることが多かった。「光陰矢のごとし」よ(笑)。
──4人の誰かと結婚するとしたら?
誰かと結婚して、また次に違う人と結婚して......と、「バツ4」になるでしょうね(笑)
──順番は?
(笑)うーん、年齢の順番かしら。まずリンゴ、次にジョン、そしてポール......最後はベイビー(ジョージ)。
──メンバーの家族ともとても仲がよかったようですが。
仕事でオフィスとメンバーの家を行き来するうちに、彼らにとっての私が、また私にとっても彼らが自然とかけがえのない友人になりました。特にリンゴの家族とは今でも毎週日曜に会うほど。マッカートニー家とも付き合いが続いています。
あの当時、私のようにビートルズの家族と親しくなった人はいなかったんですが、それは私の立場が関係しているように思います。契約書関係の仕事をしていたことで、彼らの仕事が今後どうなるか、彼らがいま何を考えているか、という家族が知りたい事を知っていたことが1つの理由ではないでしょうか。
──お話を聞くほど、ビートルズは僕らと変わらない普通の人たちだった、と実感します。
もちろんそう。まだ若い17歳の娘だったことで、彼らが私を守ってくれたように今では感じます。
──映画を見ていて、(マネージャーの)ブライアン・エプスタインはとても厳しい人だった、という印象を受けました。
ええ、とても厳しい人でした。彼はオフィスでは特に厳しく、ミスを許さないところがありました。ミスを繰り返すなんてとんでもない、という感じ。でも、ある時2人とも仕事が夜遅くまで終わらなかった時、リバプールの古いレストランに食事に連れて行ってくれた。
ただ、仕事の時はあくまで「ボス」。絶対に「エピー」という愛称で面と向かって呼ぶなんて考えられなかった。あくまで「ミスター・エプスタイン」あるいは「ミスター・ブライアン」。
──ただ彼がいたからこそビートルズが成功したのでは?
もしブライアン・エプスタインがいなくても、ビートルズは一定の成功は収めたと思うわ。これほどの成功だったかどうかは別にして。よく彼を「5人目のビートルズ」と呼ぶ人がいますが、私はそうは思いません。むしろ、(ビートルズのロードマネージャーだった)ニール・アスピノールの方が「5人目のビートルズ」でしょう。メンバーが一番信頼していた人だから。
私は「5人目のビートルズ」とか「6人目のビートルズ」という言い方は嫌い。彼らがいなくても、ビートルズはある程度の成功はしたはずです。
彼らには単なる才能ではない、何かがあったの。それは見ればわかる。生のビートルズを見れば、きっと誰でも分かるはずです。
長岡義博(本誌記者)