「香港映画の父」、ランラン・ショウが亡くなった。数えで107歳。大往生である。
彼が生まれた1907年は辛亥革命(1911年)前夜の清朝末。紡績業を営む裕福な家庭に生まれ、上海でアメリカ人が開いていた学校で学んだ後、10代の頃から長兄が作った映画会社で働き始めた。その後、映画市場開拓のために三兄とともにシンガポールに移住。映画館を買収するビジネスに乗り出し、さらに映画製作を始める。長兄の会社は戦時中に香港へ移転。1958年に彼がそれを引き継いで香港で「ショウ・ブラザーズ」を設立した。
ショウ・ブラザーズはカンフー、任侠、お色気コメディ、そしてアクション映画と徹底的に庶民ウケする映画を作り続けた。そしてそれらは香港だけではなく、台湾や東南アジアの華人・華僑社会でも人気を博し、東南アジアの共通娯楽になった。1959年からは「ミス香港コンテスト」を主催して勝ち抜いた歴代ミスたちをそのまま映画に投入、徹底的な大衆路線を貫く伝統的香港映画の基礎を作った。
だが、1970年代中頃からショウ・ブラザーズが育ててきた映画人たちが独立、それぞれに映画製作を始めるようになる。ちょうどその頃のショウ・ブラザーズ最大の失敗として語り継がれているのが、「1本1万米ドル」の出演料を要求したといわれるブルース・リーとの契約を拒絶したことだった。そのブルース・リーを拾ったのがまたショウ・ブラザーズ出身のプロデューサーだった映画会社「ゴールデン・ハーベスト」のレイモンド・チョウ。その後ゴールデン・ハーベストはブルース・リー、さらにはジャッキー・チェンの活躍で大きく業績を伸ばしていく。
さらに80年代に入ると、若手映画脚本家を中心に創設された映画会社「シネマ・シティ」がお色気、コメディ路線市場を奪った。その頃からショウ・ブラザーズはゆっくりとショウが1965年に設立したテレビ局「無線電視」(TVB)にその総力を移し始めたようだ。そして1987年、ショウ・ブラザーズは正式に映画製作を止め、その製作スタジオをすべてTVBのテレビスタジオへと転換した。
わたしが香港で暮らし始めたのがちょうどこの年で、ランラン・ショウは当時すでに齢80を超えるおじいちゃんだった。香港に二つしかなかった地上波テレビ局(と言っても、当時は地上波しかなかった)のうち、TVBはライバルの「亜洲電視」(ATV)を大きく上回る人気を誇っていた。というのも、TVBの傘下に俳優育成学校を持ち、その卒業生たちを契約でがっちりと縛り、徹底的に自局でプロモートしたからだ。その後ゴールデン・ハーベストやシネマ・シティの映画で活躍するようになる俳優や脚本家、プロデューサーなどもやはり多くがショウ・ブラザーズやTVBの出身者で、日本でも香港映画ファンによく知られているアンディ・ラウやチャウ・シンチー、トニー・レオン、チョウ・ユンファといった人気大物俳優も同学校の卒業生である。
TVBは毎年11月にはそんなスターたちが勢揃いする「台慶」と呼ばれる、設立記念日のお祝い番組が放送されるが、メディアはその日が近づくとその裏話で持ちきりになり、放送日には香港中の家庭がテレビに釘付けになるというくらいの人気番組だった。日本で言えば、紅白歌合戦やかつての「新春かくし芸大会」並みのノリだ。誰がどんな衣装を着て、どんな演目を見せてくれるのか、などと人々はワクワクしながら記事を読んでその日を待つ。文字通り盆と正月がきたかのような一大エンターテイメントだった。そんな絢爛豪華な場のクライマックスで硬い表情のショウが美女スターを両脇に従えて現れるのだが、わたしにはこのおじいちゃんが業界の尊敬を集めていることだけはかろうじてよく分かった(ちなみに、香港では日本の紅白歌合戦は旧正月の大みそかに放送されるのが恒例で、これはこれで大人気だった)。
ショウの経歴からもわかるが、ショウ・ブラザーズの全盛期は香港を中心に東南アジアで暮らす華人・華僑たちを結びつける存在だった。その頃の香港は香港生まれでも、香港育ちでもない華人、さらには東南アジア出身の人たちがたくさん暮らしていた。そこにはいろんな「アジアの香り」が漂っていて、それは華人の「ふるさと」中国、あるいは台湾の各都市とも違う。さらにイギリス植民地下の香港は国際的という面から比べても東京にはまったくないムードを漂わせた街だった。
わたしは、そんな香港で東南アジアの華人や華僑たちの視点や価値観に触れる時間を持てたことはありがたい経験だったと思っている。その後急速に台頭する中国と周辺国の様子を中国国内から眺めるようになってからも、華人とは言ってもすでに中国大陸とは違う価値観を持っている人たちが暮らす東南アジアの存在を意識することができたのは、今でも大事な判断材料の一部だ。それは、日本で中国語を学んだわたしがもしそのまま直接中国大陸に留学していれば絶対に知ることはできなかった「アジア地図」でもある。特にイギリス植民地時代における香港は、ここを拠点にして欧米へ、あるいは中国へアジアへ、もっと南へと行き交う人たちのハブ都市だった。そして香港ではこれまたそんな人の流れを狙って、さまざまなバックグラウンドの人たちが自分の出身地やスキルを武器にビジネスをしていた。ショウが最もエネルギッシュだった時代の香港はすべてが転がり続けている、そんな街だった。
そこでショウが展開したのはビジネスだけではなかった。実際のところ、わたしはテレビやメディアでその名前を見るよりも、街で彼の中国名「邵逸夫」に触れることのほうが多かった。通りがかった学校、当時通っていた大学のホール、大好きなアートセンターの劇場、2階建てバスの窓から目にした小学校だか中学校だかわからない校舎...と、あちこちに「逸夫楼」「逸夫図書館」「逸夫学校」という名前があふれていた。1975年にショウが設立した「香港邵氏基金」の寄付は実は香港のみならず、台湾やシンガポール、マレーシア、さらにはサンフランシスコやロンドンなど世界の華人が暮らす街に及び、また1985年からは中国国内でも同様の寄付を行ってきた。その総額はなんと100億香港ドル(現在のレートで約1350億円)を超えているという。
経済誌『新世紀』を発行するメディアグループ財新のサイトに掲載された経済アナリストのブログによると、中国といえば汚職が気になるところだが、香港邵氏基金は建築予定の医療や教育建築物の所有者に対して、基金の出資1に対して同額かそれ以上の出資を要求するという支援方法を採ってきた。相手が大学の場合は基金からの資金1に対して3以上の出資を求める。そうして建設されたビルには「逸夫」の名前が被せられ、またこうすることで出資した資金が個人の懐に入るのを防ぐことができ、また寄付を受ける側も本気を出すのだそうだ。ビジネスにも応用できそうな、なかなか賢いやり方である。
こうやって建設された「逸夫ビル」は中国国内だけでなんと5,200棟以上あるという。「ランラン・ショウ死去」のニュースを聞いたネットユーザーが、身近な「逸夫ビル」の写真を微博に上げるよう呼びかけたところ、地図はこんなふうに塗りつぶされてしまった。
これを見ると、香港人にとっては「エンターテイメント界のドン」だったショウは、ショウ・ブラザーズの映画が輸入されることがなかった中国の人たちには直接、「チャリティ事業のドン」として受け止められているのだろう。誰もがどこかで目にしていた「逸夫ビル」を実際に集めてみるとこんな規模になるということに、今回初めて気がついた中国人も多かったはずだ。それだけ、「邵逸夫」の名前は静かに、本当に静かに、中国に浸透してきたのだった。
一方で、自らを「中国で最も影響力を持つ」「全国地震災害救済英雄模範」「中国道徳模範」と喧伝する人物もいる。ショウが亡くなったちょうどその頃、アメリカで「『ニューヨーク・タイムズ』を買い取る」と豪語した、リサイクル会社社長の陳光標氏だ。彼の名刺を受け取ったアメリカ人記者は、そこにずらりと並ぶ10個もの自画自賛にびっくり仰天し、この話題はそのままニュースとして配信された。
日本でも「中国人富豪が『ニューヨーク・タイムズ』紙買収を宣言」とまじめにニュース配信された、この買収話は、実は中国では初めからどこも娯楽ネタ扱いだ。とにかく同氏はこれまでも「チャリティ」と銘打って、人々の目の前に札束を積み上げたり、ナマのお金を相手に握らせたりする様子をメディアに見せつけるのが大好きで、四川大地震や日本の東北震災でもでかでかと垂れ幕を貼った車を走らせ、被災地で札束をまき散らした。中国では彼の「チャリティ」とは「個人パフォーマンス」なのだと見られている。
そんなだから、クリスマスの夜に買収話の気炎を吐き、2014年が明けてからニューヨークに降り立った陳光標氏に対して、中国の経済紙『第一財経日報』は記者が連名で「公開書簡」を発表、「『ニューヨーク・タイムズ』紙の株主構造すら知らないあなたが、どうやって市場価格の半分にも満たない10億米ドルの資金で買収するのだ?」と問いかけている。さらに「『ニューヨーク・タイムズ』にポジティブな中国報道をさせるのだ」と言い続ける同氏に、「新聞自体の買収は無理でも同紙傘下の製紙工場を買収すれば、材料から同紙をコントロールできるよ」と冗談半分に勧めている(だが、『ニューヨーク・タイムズ』が近年ウェブサイトへの比重を強めているのは有名な話である)。
結局、陳氏は『ニューヨーク・タイムズ』紙にけんもほろろな扱いを受けたらしく、買収を断念することを明らかにした。だが、代わりに『ウォールストリート・ジャーナル』か『ワシントン・ポスト』など「アメリカに影響力を持つ新聞の買収」を今後考えていきたい、と述べている。
しかし、アメリカで国内外の記者を集めて行なった記者会見で陳氏はそれを発表すると同時に、以前中国の天安門事件で焼身自殺を図り、大きなやけどを負った母娘を記者たちの目の前に立たせ、二人の整形手術のための費用を全額負担すると宣言して、再び内外の記者の度肝を抜いた。
本人は自分の「チャリティ王」としての立場をアピールしたつもりらしいが、深刻な火傷を持つ母娘をカメラを持つメディアの前にさらし、またその親族もアメリカに呼び寄せて派手な宴席を持つ様子まで公開するその無神経さに、海外のみならず、中国国内でも呆れ声しか聞こえてこない。
もちろん、中国には騒ぎ立てることなく、静かにチャリティ事業を支援する人たちはたくさんいる。こうした、わざとらしい、無神経な「富豪」による、札束で人の横面をはたくようなパフォーマンスが堂々と「チャリティ」と呼ばれることに怒りを覚えている人たちも多いし、「あれを中国人の代表だとは決して思ってくれるな」と叫ぶ人もいる。その気持はよく分かる。
だが、わたしには偶然重なったこの二つの「チャリティ王の世界地図」こそが、昔の香港と今の中国の世界地図をそれぞれ表しているように思えて仕方がないのだ。
彼が生まれた1907年は辛亥革命(1911年)前夜の清朝末。紡績業を営む裕福な家庭に生まれ、上海でアメリカ人が開いていた学校で学んだ後、10代の頃から長兄が作った映画会社で働き始めた。その後、映画市場開拓のために三兄とともにシンガポールに移住。映画館を買収するビジネスに乗り出し、さらに映画製作を始める。長兄の会社は戦時中に香港へ移転。1958年に彼がそれを引き継いで香港で「ショウ・ブラザーズ」を設立した。
ショウ・ブラザーズはカンフー、任侠、お色気コメディ、そしてアクション映画と徹底的に庶民ウケする映画を作り続けた。そしてそれらは香港だけではなく、台湾や東南アジアの華人・華僑社会でも人気を博し、東南アジアの共通娯楽になった。1959年からは「ミス香港コンテスト」を主催して勝ち抜いた歴代ミスたちをそのまま映画に投入、徹底的な大衆路線を貫く伝統的香港映画の基礎を作った。
だが、1970年代中頃からショウ・ブラザーズが育ててきた映画人たちが独立、それぞれに映画製作を始めるようになる。ちょうどその頃のショウ・ブラザーズ最大の失敗として語り継がれているのが、「1本1万米ドル」の出演料を要求したといわれるブルース・リーとの契約を拒絶したことだった。そのブルース・リーを拾ったのがまたショウ・ブラザーズ出身のプロデューサーだった映画会社「ゴールデン・ハーベスト」のレイモンド・チョウ。その後ゴールデン・ハーベストはブルース・リー、さらにはジャッキー・チェンの活躍で大きく業績を伸ばしていく。
さらに80年代に入ると、若手映画脚本家を中心に創設された映画会社「シネマ・シティ」がお色気、コメディ路線市場を奪った。その頃からショウ・ブラザーズはゆっくりとショウが1965年に設立したテレビ局「無線電視」(TVB)にその総力を移し始めたようだ。そして1987年、ショウ・ブラザーズは正式に映画製作を止め、その製作スタジオをすべてTVBのテレビスタジオへと転換した。
わたしが香港で暮らし始めたのがちょうどこの年で、ランラン・ショウは当時すでに齢80を超えるおじいちゃんだった。香港に二つしかなかった地上波テレビ局(と言っても、当時は地上波しかなかった)のうち、TVBはライバルの「亜洲電視」(ATV)を大きく上回る人気を誇っていた。というのも、TVBの傘下に俳優育成学校を持ち、その卒業生たちを契約でがっちりと縛り、徹底的に自局でプロモートしたからだ。その後ゴールデン・ハーベストやシネマ・シティの映画で活躍するようになる俳優や脚本家、プロデューサーなどもやはり多くがショウ・ブラザーズやTVBの出身者で、日本でも香港映画ファンによく知られているアンディ・ラウやチャウ・シンチー、トニー・レオン、チョウ・ユンファといった人気大物俳優も同学校の卒業生である。
TVBは毎年11月にはそんなスターたちが勢揃いする「台慶」と呼ばれる、設立記念日のお祝い番組が放送されるが、メディアはその日が近づくとその裏話で持ちきりになり、放送日には香港中の家庭がテレビに釘付けになるというくらいの人気番組だった。日本で言えば、紅白歌合戦やかつての「新春かくし芸大会」並みのノリだ。誰がどんな衣装を着て、どんな演目を見せてくれるのか、などと人々はワクワクしながら記事を読んでその日を待つ。文字通り盆と正月がきたかのような一大エンターテイメントだった。そんな絢爛豪華な場のクライマックスで硬い表情のショウが美女スターを両脇に従えて現れるのだが、わたしにはこのおじいちゃんが業界の尊敬を集めていることだけはかろうじてよく分かった(ちなみに、香港では日本の紅白歌合戦は旧正月の大みそかに放送されるのが恒例で、これはこれで大人気だった)。
ショウの経歴からもわかるが、ショウ・ブラザーズの全盛期は香港を中心に東南アジアで暮らす華人・華僑たちを結びつける存在だった。その頃の香港は香港生まれでも、香港育ちでもない華人、さらには東南アジア出身の人たちがたくさん暮らしていた。そこにはいろんな「アジアの香り」が漂っていて、それは華人の「ふるさと」中国、あるいは台湾の各都市とも違う。さらにイギリス植民地下の香港は国際的という面から比べても東京にはまったくないムードを漂わせた街だった。
わたしは、そんな香港で東南アジアの華人や華僑たちの視点や価値観に触れる時間を持てたことはありがたい経験だったと思っている。その後急速に台頭する中国と周辺国の様子を中国国内から眺めるようになってからも、華人とは言ってもすでに中国大陸とは違う価値観を持っている人たちが暮らす東南アジアの存在を意識することができたのは、今でも大事な判断材料の一部だ。それは、日本で中国語を学んだわたしがもしそのまま直接中国大陸に留学していれば絶対に知ることはできなかった「アジア地図」でもある。特にイギリス植民地時代における香港は、ここを拠点にして欧米へ、あるいは中国へアジアへ、もっと南へと行き交う人たちのハブ都市だった。そして香港ではこれまたそんな人の流れを狙って、さまざまなバックグラウンドの人たちが自分の出身地やスキルを武器にビジネスをしていた。ショウが最もエネルギッシュだった時代の香港はすべてが転がり続けている、そんな街だった。
そこでショウが展開したのはビジネスだけではなかった。実際のところ、わたしはテレビやメディアでその名前を見るよりも、街で彼の中国名「邵逸夫」に触れることのほうが多かった。通りがかった学校、当時通っていた大学のホール、大好きなアートセンターの劇場、2階建てバスの窓から目にした小学校だか中学校だかわからない校舎...と、あちこちに「逸夫楼」「逸夫図書館」「逸夫学校」という名前があふれていた。1975年にショウが設立した「香港邵氏基金」の寄付は実は香港のみならず、台湾やシンガポール、マレーシア、さらにはサンフランシスコやロンドンなど世界の華人が暮らす街に及び、また1985年からは中国国内でも同様の寄付を行ってきた。その総額はなんと100億香港ドル(現在のレートで約1350億円)を超えているという。
経済誌『新世紀』を発行するメディアグループ財新のサイトに掲載された経済アナリストのブログによると、中国といえば汚職が気になるところだが、香港邵氏基金は建築予定の医療や教育建築物の所有者に対して、基金の出資1に対して同額かそれ以上の出資を要求するという支援方法を採ってきた。相手が大学の場合は基金からの資金1に対して3以上の出資を求める。そうして建設されたビルには「逸夫」の名前が被せられ、またこうすることで出資した資金が個人の懐に入るのを防ぐことができ、また寄付を受ける側も本気を出すのだそうだ。ビジネスにも応用できそうな、なかなか賢いやり方である。
こうやって建設された「逸夫ビル」は中国国内だけでなんと5,200棟以上あるという。「ランラン・ショウ死去」のニュースを聞いたネットユーザーが、身近な「逸夫ビル」の写真を微博に上げるよう呼びかけたところ、地図はこんなふうに塗りつぶされてしまった。
これを見ると、香港人にとっては「エンターテイメント界のドン」だったショウは、ショウ・ブラザーズの映画が輸入されることがなかった中国の人たちには直接、「チャリティ事業のドン」として受け止められているのだろう。誰もがどこかで目にしていた「逸夫ビル」を実際に集めてみるとこんな規模になるということに、今回初めて気がついた中国人も多かったはずだ。それだけ、「邵逸夫」の名前は静かに、本当に静かに、中国に浸透してきたのだった。
一方で、自らを「中国で最も影響力を持つ」「全国地震災害救済英雄模範」「中国道徳模範」と喧伝する人物もいる。ショウが亡くなったちょうどその頃、アメリカで「『ニューヨーク・タイムズ』を買い取る」と豪語した、リサイクル会社社長の陳光標氏だ。彼の名刺を受け取ったアメリカ人記者は、そこにずらりと並ぶ10個もの自画自賛にびっくり仰天し、この話題はそのままニュースとして配信された。
日本でも「中国人富豪が『ニューヨーク・タイムズ』紙買収を宣言」とまじめにニュース配信された、この買収話は、実は中国では初めからどこも娯楽ネタ扱いだ。とにかく同氏はこれまでも「チャリティ」と銘打って、人々の目の前に札束を積み上げたり、ナマのお金を相手に握らせたりする様子をメディアに見せつけるのが大好きで、四川大地震や日本の東北震災でもでかでかと垂れ幕を貼った車を走らせ、被災地で札束をまき散らした。中国では彼の「チャリティ」とは「個人パフォーマンス」なのだと見られている。
そんなだから、クリスマスの夜に買収話の気炎を吐き、2014年が明けてからニューヨークに降り立った陳光標氏に対して、中国の経済紙『第一財経日報』は記者が連名で「公開書簡」を発表、「『ニューヨーク・タイムズ』紙の株主構造すら知らないあなたが、どうやって市場価格の半分にも満たない10億米ドルの資金で買収するのだ?」と問いかけている。さらに「『ニューヨーク・タイムズ』にポジティブな中国報道をさせるのだ」と言い続ける同氏に、「新聞自体の買収は無理でも同紙傘下の製紙工場を買収すれば、材料から同紙をコントロールできるよ」と冗談半分に勧めている(だが、『ニューヨーク・タイムズ』が近年ウェブサイトへの比重を強めているのは有名な話である)。
結局、陳氏は『ニューヨーク・タイムズ』紙にけんもほろろな扱いを受けたらしく、買収を断念することを明らかにした。だが、代わりに『ウォールストリート・ジャーナル』か『ワシントン・ポスト』など「アメリカに影響力を持つ新聞の買収」を今後考えていきたい、と述べている。
しかし、アメリカで国内外の記者を集めて行なった記者会見で陳氏はそれを発表すると同時に、以前中国の天安門事件で焼身自殺を図り、大きなやけどを負った母娘を記者たちの目の前に立たせ、二人の整形手術のための費用を全額負担すると宣言して、再び内外の記者の度肝を抜いた。
本人は自分の「チャリティ王」としての立場をアピールしたつもりらしいが、深刻な火傷を持つ母娘をカメラを持つメディアの前にさらし、またその親族もアメリカに呼び寄せて派手な宴席を持つ様子まで公開するその無神経さに、海外のみならず、中国国内でも呆れ声しか聞こえてこない。
もちろん、中国には騒ぎ立てることなく、静かにチャリティ事業を支援する人たちはたくさんいる。こうした、わざとらしい、無神経な「富豪」による、札束で人の横面をはたくようなパフォーマンスが堂々と「チャリティ」と呼ばれることに怒りを覚えている人たちも多いし、「あれを中国人の代表だとは決して思ってくれるな」と叫ぶ人もいる。その気持はよく分かる。
だが、わたしには偶然重なったこの二つの「チャリティ王の世界地図」こそが、昔の香港と今の中国の世界地図をそれぞれ表しているように思えて仕方がないのだ。