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受験生の「購読雑誌」を書かせるアメリカの大学入試 - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 2014年1月17日 10時50分

 アメリカの大学入試は、多くの大学で1月1日、一部では1月15日に願書受付が締め切られ、これで受験生は「延々と続くエッセイの執筆」から解放されて、3月末の合格発表を待つことになります。一部、11月の早期出願に応募して12月に合格通知を受け取っている受験生もいますが、そうした人々も含めて、これで高校4年生の多くがとりあえず高校での学業と課外活動に専念できることになります。

 アメリカの大学入試は全て「AO(アドミッション・オフィス)方式」です。受験会場に赴いて決められた試験時間に問題に取り組むということは、統一テストとしてはありますが、各大学としては一切ありません。エッセイにしても履歴書にしても、自宅で書いて、ウェブサイトで入力するだけです。

 ですが、これが結構大変です。特に近年は各大学が独自にエッセイの出題を行うことに加えて、大学独自の「質問項目」というものを設けており、受験生としては気が抜けません。

 その質問項目ですが、例えばプリンストンでは「自分の好きな音楽のアルバム」を書かせていますし、コロンビアでは「購読雑誌」を申告させています。

 このコロンビア大学における「購読誌の申告」ですが、どうしてそんなことを聞くのかというと、学生を審査する際に「どんな情報収集のツールを使っているか」ということを、優秀な人材であるかを判定する材料になると見ているのだと考えられます。また、面接の際に話題にして「受験生の人物」を見るためのキッカケのトピックにしようとしているのかもしれません。

 そうした「AOサイド」の意図というのはミエミエですから、学生としては「フォーリン・アフェアーズ(外交論評誌)」ですとか、ニューズウィーク誌の電子版だとかいう回答を書くことになるわけです。私は、受験生に対しては「適当に書いてもいいけど、面接で聞かれることがあるので、印象に残った記事とかはちゃんと思い出せるようにしておいたほうが良いよ」というような「アドバイス」をすることにしています。

 アメリカのAO入試における各大学の自由設問というのは、通常はもっと複雑で「その人物の人となり」が自然と出てしまうようなものが多いのですが、「購読誌」を書けというのは何とも「ベタ」な質問のようにも思えます。つまり「何となく期待されている回答が見えてしまう」からです。

 ですが、これによって少しでも合格圏内に入りたい受験生が表面的な「傾向と対策」に走るとか、結果的に「忙しい受験生がムリに難しい雑誌を読んで受験戦争が過熱する」ことになるかというと、必ずしもそうではありません。



 アメリカのAO入試というのは、各大学が多くの専任スタッフを抱えていて、願書に関しては複数の人間の目によって多角的に検証されるからです。例えばエッセイや内申書で「知的な優秀度」を証明できなかった学生が、「1点でも稼ごう」と思って「背伸びをして難しい雑誌を購読していることにする」ような回答は、ほとんど意味がないわけです。あくまで全体として願書は判定されるので、その中の一つの材料として「購読雑誌」を聞くということがあり、それは全体との整合性を検証しながら判定され、また事実の検証が必要であれば面接などでチェックがかかるのです。

 実はこの辺りの「合格判定のノウハウ」というのは非常にテクニカルに洗練されているらしいのです。各大学ともに秘中の秘ということになっていますが、その中身としては「主観的なファジーなもの」でもなく、「点数化による機械的なもの」でもなく、それでいてノウハウとしてはロジカルに組み立てられたものがあると言われています。

 日本でも、例えば東大が入試での面接を導入したり、推薦入学を検討したりという話が出ていますが、可能であればこうしたアメリカの大学の「AO」がやっているテクニカルな実務について十分に調査して取り入れるべきところは取り入れるということが必要だと思います。

 日本の場合ですと、仮に「講読雑誌を調査する」ようなことになれば、塾や予備校が「理系だったら『日経サイエンス』を読め」とか「文系だったら経済誌が無難」などという「余計なテクニック」を煽ったり、一方で「講読雑誌を聞いたら思想信条の調査になるのでは」という懸念が出てきたり、あるいは「教官が面接官の場合には、自分の思想を元に偏った評価をするのでは」という心配などが出てきそうです。

 そうした中で、結局は「今の毒にも薬にもならない」ペーパーの「大学入試」を続けるのが「客観的で公正だ」というような話になりそうです。現に今のところはそうした議論も対立軸の一方にはあるようです。

 ですが、大学入試制度というのは、受験を控えた高校生の「知的活動全般」を束縛してしまうわけです。ですから、形式的な「記憶力と作業能力のチェック」ではなく、何らかのメッセージ性のある問題を出して、高校生の間にも「中身のある」知的な訓練を始めて欲しいという要求を具体化するということは重要だと思うのです。

 日本の入試改革がアメリカの大学入試を参考にするのであれば、実際にアメリカの各大学の「アドミッション・オフィス」が持っている実務ノウハウの研究を進めて行くことが必要ですし、国立大学が面接やエッセイ評価を行うのであれば、合格基準の指針には何らかの透明性が求められると思います。その限りにおいて、これはあくまでも例ですが「講読雑誌を聞く」ということをはじめ、学生の様々な属性や志向を尋ねることの意味も出てくるのだと思われます。

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