東日本大震災で74人以上の生徒が津波に呑まれた、石巻市の大川小学校の惨事について、19日、検証委員会の報告が発表された。ちょうど1週間前、私を含めた国際政治を専門とする研究者たちは、その小学校跡を訪れたところだ。
なぜ、中東研究の私が被災地を視察するのか、疑問に思われるだろう。だが、震災も戦争も、当たり前の日常社会が根本からひっくり返されてしまうという点でよく似ているし、災厄からの復興に際して直面する障害にも、いろいろな意味で共通点がある。
私たちは極寒のなか、大川小学校を訪れたのはほんの一時間程度だったが、崩壊した学校を前に遺族の話を聞くにつれて、情けなさでいっぱいになった。生徒たちは、地震直後に校庭に集められた後、51分の間なにも行動を起こせないまま、いよいよ津波が来るという時になってようやく移動を開始し、ほとんどの生徒が波に呑まれたのだという。生徒のなかには、校庭に隣接する山に逃げよう、と主張する子供もいたが、山は危ないという理由で、静止された。それでも山への脱出を決行して、命が助かった者もいる。だが、検証委員会では、そうした子供の声や遺族の証言が、無視され続けてきた、というのだ。(その経緯は、池上正樹「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」青志社、に詳しい。)
中東でさまざまな戦争、内戦の被害者を見てきて、何が共通しているかといえば、理不尽に命を奪われた者の死に、意味を与えてやりたい、という遺族の思いだ。なぜ自分の子供が、伴侶が、親が、友人が命を奪われなければならなかったのか。奪われた命が戻ってこないことに変わりがないとしても、なぜどういう理由で亡くなったのか、理由を知りたい、という欲求は、人災でも天災でも同じ思いである。
世界各地の戦争やジェノサイドなどに対して、過去の犯罪の解明を求め、弾圧や内戦で犠牲となった人たちの記憶を掘り起し残し、その尊厳を取り戻す試みが、さまざまになされている。ポルポト政権下カンボジアでの虐殺や、1994年のルワンダ虐殺、1996年まで続いたグアテマラ内戦などを巡る真相解明の試みが、それだ。
こうした営みは、ただ恨みを晴らすだけではない。犠牲者と事件の責任者が和解し再出発を目指すために、必要不可欠な行為である。イラクでフセイン政権に処刑された人々の遺族が、遺体を探して国内中を旅する祖母と孫を描いた「バビロンの陽光」というイラク映画(2011年日本公開)は、その遺族たちの、前に進めない思いを描くとともに、「和解」が口だけの簡単なものではありえないことを、よく表している。大川小学校の周辺では、いまだに家族が行方不明の人たちが、現場の地面をくまなく探る光景に出会った。
大量の死に責任を負うものが、その事実を押し隠そうとする行動もまた、悲しいかな、戦争と被災はよく似ている。2002年、ヨルダン川西岸のジェニンでイスラエルがパレスチナ人難民キャンプを攻撃し、多くの犠牲者を出した事件で、国連査察団が調査に入ろうとしたのを、イスラエル政府は一切認めなかった。視察できるようになったときには、その証拠はさっぱり、消されていた。
なぜ人は、都合の悪い出来事が起きたときに、残された人々が最も知りたい「なぜ命が理不尽に奪われたのか」という疑問を一層深める形で、事実を隠ぺいしようとするのだろうか。それが、ますます人々の距離と対立と憎悪を深めてしまうことは、数々の紛争の経験から、よく知っているはずなのに。
大切な人の死を理不尽なまま、認めることはできない。だとすれば、失われた命は「意味があった」と無理やりにでも思わなければ、やっていられない。だがそこで、死そのものを肯定する安易な意味づけがなされてしまうことは、怖い。それが人種主義や排外的ナショナリズムやある種の宗教など、理不尽に命を奪うことを正当化するロジックに、頼りがちな環境が生まれることが、怖い。無理やりの意味づけではなく、合理的に納得のいく意味を亡くなった者たちに与えるために、死の原因を検証することは不可欠だ。
被災地を訪ねながら、町を挙げて復興が進んでいる場所と、大川小学校のように、置いてけぼりにされていこうとする場所の落差の大きさに、愕然とした。それもまた、戦争後の復興と重なるものがある。被災したのは同じでも、復興の過程で、被災者社会が引き裂かれていく。訪ねた被災者のなかには、仮設住宅の人々に対して、同じ地元の住民から、「3年もたったのに、いまだに文句を言うな」と言われる、と嘆く者もあった。家を流されて補償金をもらえたんだから、そうじゃない人たちに比べて儲かったじゃないか、と。
イラク戦争から1年半後、新政府が選挙を実施して新たな国づくりを目指す、と息巻いていたときに、中部のファッルージャで大規模な掃討作戦が実施された。掃討作戦でがれきの山となった町で選挙などできるはずもないのに、政府は選挙を断行し、ファッルージャの人々は、自分たちは戦後の復興プロセスから意図的において行かれたという意識を、強烈に抱いた。その後、宗派対立と呼ばれたイラクの熾烈な内戦は、こうして被災者を分断することから、始まったのだ。
石巻滞在の最後の日、イラク戦争のころに付き合いのあったジャーナリストに、ばったり出会った。イラク戦争後の復興に奔走していた援助機関のなかには、震災後の復興事業にボランティアとして真っ先に飛び込んでいった人たちが多い。人災でも天災でも、被災の痛みに人が動かされることは共通している。
その一方で、同じ国の災厄なのに、三年近くの年月を経ていとも簡単に忘れ去られようとしていることにも、愕然とする。中東を研究する者としては、遠い海外の紛争のことだから、中東の被災者の痛みに日本人が鈍感であっても仕方がないのかも、と諦めていた。だが、同じ日本人に起きたことに対してすら、かくも他人事化していることは、なにかおかしくはないか。国内であれ国外であれ、被災者は置いて行ってもかまわない人たちなのだ、という感覚が、どこか蔓延してはないか。それが、一番怖い。
なぜ、中東研究の私が被災地を視察するのか、疑問に思われるだろう。だが、震災も戦争も、当たり前の日常社会が根本からひっくり返されてしまうという点でよく似ているし、災厄からの復興に際して直面する障害にも、いろいろな意味で共通点がある。
私たちは極寒のなか、大川小学校を訪れたのはほんの一時間程度だったが、崩壊した学校を前に遺族の話を聞くにつれて、情けなさでいっぱいになった。生徒たちは、地震直後に校庭に集められた後、51分の間なにも行動を起こせないまま、いよいよ津波が来るという時になってようやく移動を開始し、ほとんどの生徒が波に呑まれたのだという。生徒のなかには、校庭に隣接する山に逃げよう、と主張する子供もいたが、山は危ないという理由で、静止された。それでも山への脱出を決行して、命が助かった者もいる。だが、検証委員会では、そうした子供の声や遺族の証言が、無視され続けてきた、というのだ。(その経緯は、池上正樹「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」青志社、に詳しい。)
中東でさまざまな戦争、内戦の被害者を見てきて、何が共通しているかといえば、理不尽に命を奪われた者の死に、意味を与えてやりたい、という遺族の思いだ。なぜ自分の子供が、伴侶が、親が、友人が命を奪われなければならなかったのか。奪われた命が戻ってこないことに変わりがないとしても、なぜどういう理由で亡くなったのか、理由を知りたい、という欲求は、人災でも天災でも同じ思いである。
世界各地の戦争やジェノサイドなどに対して、過去の犯罪の解明を求め、弾圧や内戦で犠牲となった人たちの記憶を掘り起し残し、その尊厳を取り戻す試みが、さまざまになされている。ポルポト政権下カンボジアでの虐殺や、1994年のルワンダ虐殺、1996年まで続いたグアテマラ内戦などを巡る真相解明の試みが、それだ。
こうした営みは、ただ恨みを晴らすだけではない。犠牲者と事件の責任者が和解し再出発を目指すために、必要不可欠な行為である。イラクでフセイン政権に処刑された人々の遺族が、遺体を探して国内中を旅する祖母と孫を描いた「バビロンの陽光」というイラク映画(2011年日本公開)は、その遺族たちの、前に進めない思いを描くとともに、「和解」が口だけの簡単なものではありえないことを、よく表している。大川小学校の周辺では、いまだに家族が行方不明の人たちが、現場の地面をくまなく探る光景に出会った。
大量の死に責任を負うものが、その事実を押し隠そうとする行動もまた、悲しいかな、戦争と被災はよく似ている。2002年、ヨルダン川西岸のジェニンでイスラエルがパレスチナ人難民キャンプを攻撃し、多くの犠牲者を出した事件で、国連査察団が調査に入ろうとしたのを、イスラエル政府は一切認めなかった。視察できるようになったときには、その証拠はさっぱり、消されていた。
なぜ人は、都合の悪い出来事が起きたときに、残された人々が最も知りたい「なぜ命が理不尽に奪われたのか」という疑問を一層深める形で、事実を隠ぺいしようとするのだろうか。それが、ますます人々の距離と対立と憎悪を深めてしまうことは、数々の紛争の経験から、よく知っているはずなのに。
大切な人の死を理不尽なまま、認めることはできない。だとすれば、失われた命は「意味があった」と無理やりにでも思わなければ、やっていられない。だがそこで、死そのものを肯定する安易な意味づけがなされてしまうことは、怖い。それが人種主義や排外的ナショナリズムやある種の宗教など、理不尽に命を奪うことを正当化するロジックに、頼りがちな環境が生まれることが、怖い。無理やりの意味づけではなく、合理的に納得のいく意味を亡くなった者たちに与えるために、死の原因を検証することは不可欠だ。
被災地を訪ねながら、町を挙げて復興が進んでいる場所と、大川小学校のように、置いてけぼりにされていこうとする場所の落差の大きさに、愕然とした。それもまた、戦争後の復興と重なるものがある。被災したのは同じでも、復興の過程で、被災者社会が引き裂かれていく。訪ねた被災者のなかには、仮設住宅の人々に対して、同じ地元の住民から、「3年もたったのに、いまだに文句を言うな」と言われる、と嘆く者もあった。家を流されて補償金をもらえたんだから、そうじゃない人たちに比べて儲かったじゃないか、と。
イラク戦争から1年半後、新政府が選挙を実施して新たな国づくりを目指す、と息巻いていたときに、中部のファッルージャで大規模な掃討作戦が実施された。掃討作戦でがれきの山となった町で選挙などできるはずもないのに、政府は選挙を断行し、ファッルージャの人々は、自分たちは戦後の復興プロセスから意図的において行かれたという意識を、強烈に抱いた。その後、宗派対立と呼ばれたイラクの熾烈な内戦は、こうして被災者を分断することから、始まったのだ。
石巻滞在の最後の日、イラク戦争のころに付き合いのあったジャーナリストに、ばったり出会った。イラク戦争後の復興に奔走していた援助機関のなかには、震災後の復興事業にボランティアとして真っ先に飛び込んでいった人たちが多い。人災でも天災でも、被災の痛みに人が動かされることは共通している。
その一方で、同じ国の災厄なのに、三年近くの年月を経ていとも簡単に忘れ去られようとしていることにも、愕然とする。中東を研究する者としては、遠い海外の紛争のことだから、中東の被災者の痛みに日本人が鈍感であっても仕方がないのかも、と諦めていた。だが、同じ日本人に起きたことに対してすら、かくも他人事化していることは、なにかおかしくはないか。国内であれ国外であれ、被災者は置いて行ってもかまわない人たちなのだ、という感覚が、どこか蔓延してはないか。それが、一番怖い。